2014年12月14日

ニューシネマパラダイスの時代と記憶:20年前をふりかえって今を見つめる

映画や音楽はしばしば言葉にならない記憶を固定してくれる。

みなさんご存知の映画ニューシネマパラダイスは、56年生まれの監督トルナトーレが、32歳のとき撮った、彼の一番の人気作だ。この映画は、第二次大戦を過去のものとしたイタリアが、将来を夢見ることが誰しにも許された平和な時代への愛情と、そういう明るい空気の中での幼少・青年時代への郷愁を歌いあげた作品だといってもよい。また、過去を省みることでいまの自分をみつめて成長する、芸術家としてのトルナトーレの自立の物語だともいえよう。

私がこの映画を観たのは少し遅れての90年代はじめだが、この映画の音楽はいつも当時の空気を思い出させてくれる。その頃の大学生はまだ人生の先行きに(バブル崩壊後の若干の不安がありながらも)楽観的だった。そして皆が戦争や差別が存在してはいけないのは当たり前のことだと思っていたし、そういう世界がいつまでも続くことを疑っていなかった。

あれから20年、ずいぶん時代が変わった。この変化を、外国のせいにする人と、自分たちの未熟さに帰する人とで、政治に対する姿勢、選挙における選択は大きく分かれるように感じている。

最近多くの人がいう。日本の周りの環境が変わってしまったからね、と。そうだろうか。確かに探し出すと危険はいくらでも見つかるかもしれない。でも、それは今に始まった事ではないし、いつの世も、どんな場所に生きていても、多少の危険など存在する。そもそも、自分がうまくいかないことを外国のせいにするのは情けないことだと思う。

また最近、「平和ボケ」とかいう言葉でごまかして、戦争を辞さないような勇ましいことを言う人が増えたようにも思う。しかし私はこういう人たちこそ腰抜けだと思う。そういう野蛮な行為のせいで外交がうまくいかなくなったときのしわ寄せがどこに来るのかの想像力もなしに、自分の責任がとれないことを口にして社会をかき回すのは卑怯なことだ。本当の危険に満ちている国際社会では、容易に勇ましいことを言うものでは決してない。外交の原義である"diplomatic"という言葉は、もともと、深謀遠慮をもったうえで角が立たないように物事を進める能力を言う。つまり外交とは、勇ましいことを吠えるだけの野蛮さとはおよそ縁のないものである。そういう外交のがの字も分かっていないような輩が国政をかき回すようになったら、たしかに戦争が現実のものになるだろう。しかしそうなったとしても外国のせいではない。日本の自業自得である。

そもそも、周囲の国がどんな振る舞いをしていたって、自分がしっかり自立して周囲の模範となることを目指せば良いではないか、と思う。世界にはそれくらいの余裕はあるし、成熟した国であるはずの日本にはそういう役割が期待されている。もし日本が大人の国であるならば。

だから私は、今日本が直面している困難は、自分たちが未熟だからこそ至ったものだと考える。外国のせいにしたり、自分たちの過去についての言い訳をするのは、恥ずかしいことで、自立していない未熟な証拠だと思う。

人々が自立して、国が自立する。そうしてこそ、今の閉塞した時代の空気が明るいものに変わり、心安らかに自分の生きる時代を愛せるときが、またいつの日か来るものと信じる。

(ヤフー個人、筆者の2014年12月14日記事より転載)
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2014年12月13日

格差社会と選挙

今回の選挙の大きな争点の一つは、格差社会の拡大を認めるかどうか、だと思う。

格差が広がりすぎると、そして生まれで全てが決まる階級社会になると、社会が荒む。日本の持ち味が失われ住みにくい国になり、やがて国としての競争力も落ちる。英国は階級の存在が重荷で、こういう悪い点は真似してはいけない。アベノミクスの恩恵を感じない人・勝ち組両方とも真剣に考えるべきだろう。

もしアベノミクスが本当に成功していたとして、現時点で自分が何ら恩恵を感じていないなら、今後も恩恵は得ることはないだろう。つまり安倍政権が続いて格差社会が拡大して日本が上流層と下流層に二極化したとき、自分が下流層になることを意味する。

ネットで出回っている画像だが再度紹介する。
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巷で子供をよい学校にいれるのに必死な中流の家庭を見たことがあろう。彼らは自分の子供が下流に転落するのを恐れて「バスに乗せよう」としている。でも、その努力を少しでも政治を変えることに使って、格差社会を縮めて誰もが自分の人生を楽しめる社会にできたら、そんな心配をする必要もないのに、と思う。自分だけのことじゃなくて、少しだけ周りのことを考えれば、何を選択していくべきか、見えてくると思うのだが。

私自身は医者だが、医者で安倍自民のアベノミクス政策を支持する人もいるようだ。それは自分たちの懐が恩恵を被っているからかもしれない。でも、大多数の患者が安倍政権下で消費税増税になどの締め付けで、より苦しい生活をしていることに気がついていないはずはなかろう。仮に医者なら、心はいつも患者に寄り添い、貧富の差別なく患者を助け、患者の生活と幸福を第一義に考えるのが医者のあるべき姿じゃなかったのか。この医者として一番大事な価値を忘れてしまったのだろうか。

日本の個人主義がまだ未熟なせいだろうが、悪い部分だけ助長しているように思う。しかし個人主義は一度目覚めたら、戻ることはないので、これからは、公益を大事に考える個人主義という良い方向に伸ばしていかなければならない。別の言葉で言えば、多くの人が、もう少しだけ、自分の周りに目を遣れるようになれば、社会はもっと良くなるのに、と思う。
posted by 小野昌弘 at 22:39 | TrackBack(0) | 政治・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

投票という、大人になるための階段

選挙とは、社会での自分自身の立ち位置に一番近い候補者を選ぶという、実に単純で明快な作業と思う。たとえれば巻尺で距離を測って一番自分に近い人を選ぶようなもの。そうして自分の立場を代表してくれる人が議会に行けば、自分自身が結局得をするのだから。「入れる人がいない」はありえないはずだ。

いや、それでも誰に入れても同じだ、という人もいるかもしれない。本当にそうだろうか。それは違いを知らないから、知ろうとしていないからではないか。選挙の結果にしたがって社会がどう変わっているかを見ようとしたことがないからではないか。

選挙で、好き嫌いじゃなく、社会での自分自身の立ち位置に一番近い候補者を選ぶためには、何より自分を理解しなきゃいけない。社会における自分の立場というのは、たいていの場合、虚栄心を満足させるような素晴らしいものではないだろうし、単調で面白みのない毎日しかそこにないならば、芸能人・強い政治家・スポーツ選手などに同一化して、「彼ら・彼女らの一部である自分」を生きたくなることもあろう。これで一時的に自分を騙せても、現実は揺らがない。社会の中で「どこかの場所」にいる自分という事実は、まがいもない真実で動かしようがない。

自分自身のために投票するには、テレビや新聞が何と言おうと、それに関係なく自分自身の意見をきっちり持つ必要がある。テレビの画面に映っている有名人に自分を同一化しているようではダメなのだ。だいたい、有名人というのは大抵の人より相当多くのお金を持っていて、庶民の生活のことなど分かっていない可能性のほうが高いのだから。

ここでありがちな落とし穴は、「マスコミは嘘ばかりだがネットの裏の世界にはどこかに真実の情報がしまってある場所があって、そこに行けば正しいことがみんな分かる」という幻想だ。残念ながら、そんな都合のいい場所は存在しない。そんなことを謳っている場所があったとしたら、それは真実に対する真摯さが無いということなのだから、宗教かあるいは悪質な勧誘かもしれない。なにせ、現実というものは、世界の英知が集まっても分かりきれないくらい、途方もないものなのだ。

こうして実際に自分の頭で考え出してみる。ここで大人になると分かる(分からなければならない)大事なことにぶつかる。それは「自分にとっての答え」は誰も教えてくれないということだ。テレビを見ても、新聞を読んでも、本を漁っても、ネットを隅々まで見ても、どこにもその答えは書いていない。でもそうして必死で考え始めると、自分は社会の中でどういう立場にいるのか、自分はそのままだとどういう未来を持つようになるのか、社会全体はどのように変わっていくのか、その変化にどうやって政治が関わっているのかが、ぼんやりと見えてくる。

そのとき、テレビの画面の中で、明快な口調で分かりやすい言葉を吐くひとの中に、ペテン師の顔が隠れていたのが見えてくるかもしれない。少し重い口で歯切れ悪く語るひとが、実はものすごく大事なことを、できるかぎり正直に語っていることに気がつくかもしれない。そのうち、自分で調べ始めるようになろう。答えではなく、具体的な事実を。

そして政治家というのが、実は国民の代表のことで、代表が集まって何をしているのか、何が政治家の仕事なのか、少しずつ分かってくる。そして、どの人も完璧ではないけれども、往々にしてその人たちなりに努力していることも分かってくるだろう。そして、どの人の努力の方向が、自分にとって納得できる方向かどうか、考え出すことになる。

そうしてあるとき、選挙の日が来る。候補者を見て考える。どの候補者が、自分の立場を代表してくれるのだろう。自分と、自分の周りの親しい人・愛する人・世話になっている人・世話している人、そういう自分たちに一番近い立場のひとを代表にして、国会に送り込まなければならない。そうすれば、自分たちが少しでも楽に世の中を生きていけるように、少しずつでも世の中をましな方向に変えていけるかもしれない。

逆に、この機会を無駄にして、「誰になっても同じだ」などとうそぶいていると、いつのまにか、自分たちからむしり取る人・自分たちを騙す人・踏みつける人・自分たちが倒れても手を差し伸ばしてくれない人たちの代表が国会に行って、勝手な法案を作るようになる。そうすると、法的に自分たちがますます生きにくくなるような世の中に変わっていってしまう。

だから、選挙というのは必死でやるものだ。仕事を真剣にやるときのように、社会での自分自身の立ち位置に一番近い候補者を真剣に選ばなければならない。自分の生活がかかった測量作業といっていい。選挙というのは、こうして自分の頭と経験をフル回転させて答えを出さなければならない、面白い機会なのだ。自分の知力と感性が試されているといってもいい。

大事な点だが、投票するときは皆一人になる。そして誰からも見られない小さな机の上で、頭を振り絞って出した自分だけの答えを、一票の中に書き入れる。この瞬間は完全に自由だ。ここで書く名前が、会社の上司に頼まれた名前でなくてもいい。なにせ、投票は完全に秘密なのだから。会社では、上司の言ったとおりにしました、と言って笑顔を浮かべて、自分の書きたい人の名前を書いても、法的にも、道義上も、全く正しいことなのだから。逆にこうして真摯に考えて、そのうえでもし自分の書きたくない人の名前を書いてしまったとしたら、それは自分自身への冒涜だ。

つまり、投票とは大人になるための階段といってよかろう。といっても、これは成人式のことではない。年をとっているからといって大人とは限らない。日本で往々にして勘違いされていることだが、大人になるとは、世の中を分かったふりをして批判精神を捨てて奴隷の境遇を楽しめるように落ちぶれることではない。大人になることは、たった一人で自分の足で地面に立ち自分の考えで前に進むことを決意すること、といってもいい。つまり、ひとは大人として生きられているか、人生を通じて常に試されているといってもよい。

そんなことを言っても、投票で一人ができるのはたった一票だけじゃないか、それで社会が変わるわけがない、と言われるかもしれない。確かに自分が投票した人が当選するかもしれないし、しないかもしれない。でもその結果に関わらず、必死で考えた自分は、少し前に進んでいる。だから選挙の結果をみたときに、選挙を経た後の国会の様子をみたときに、何がどういうわけで変化していくのか、前よりもよくわかるようになっている。そうして自分に出来ることは何なのか、また考え出すことになるだろう。

一人なら一票だけかもしれない。でも多くのひとがこうして自分で考えて投票することを始めたら、世の中は間違いなく大きく変わる。一部の既得権益を持っている人の代表ではなくて、多くの人を代表する人が国会に行けば、多くの人のための政治をしてくれるのだから。選挙というのは、まさにそのためにある。

皆が大人になれば政治は変わる。政治が変われば生活が変わる。選挙に、行こう。

(ヤフーニュース個人、筆者のページ、12月12日記事より転載)
posted by 小野昌弘 at 03:48 | TrackBack(0) | 政治・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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