2018年07月13日

制御性T細胞という警察官役の細胞がいるのではない。T細胞の人生に警察官やギャングの時期があるのだ、ということについて。

実は現在の免疫学の(さらには多くの医学生物学の)測定データの殆どが「スナップ撮影」にすぎない。そして時間の間隙は、想像で埋めることで理論が組み立てられている。これは自明のことだけれど、この問題の重要性に気がついていない人が多い。実際、免疫学の誤謬の大きな原因はここにあるのは間違いないのだが、書かれていない・聞いたことがない話を書いても、何のことかと思われるのが関の山であろう。だから、ちょっとその背景を詳しく書いてみたいと思った。

1.エレファントマン臨床試験と制御性T細胞
2006年「制御性T細胞標的免疫療法」の臨床試験が行われた英国では、試験薬で多臓器不全に陥った患者の惨状から「エレファントマン臨床試験」として知られる。当時私は「制御性T細胞を利用した免疫抑制薬」を開発するプロジェクトを担当していたため、大きな衝撃を受けた。

というのは、もともとの問題は、研究者自身が免疫データはスナップ撮影にすぎないことを忘れ、制御性T細胞を特別な細胞に祭り上げたところにあると思う。そして「制御性T細胞だけ」を標的にした免疫療法を開発したが、2006年臨床試験で投与すると全てのT細胞に効いてしまい、ボランティア全員を死の淵に追いやる惨事になったと考えている。

少し詳細を書くと、この制御性T細胞の免疫療法はCD28というT細胞の活性化経路を刺激する抗体を使っている。しかしCD28という分子は、T細胞の活性化の根本にあるもので、CD28を刺激すれば、全てのT細胞が刺激されて免疫反応を起こすことは学生でも知っている。そして実際に臨床試験では体の全T細胞が活性化してサイトカインの嵐が起きた。基礎研究の制御性T細胞の理論に欠陥があると考えるべきではないか。

事件後、制御性T細胞を特別視する風潮は少し改まるかと期待していた。しかし制御性T細胞を利用した抗体治療の臨床試験でボランティア全員が死に面するという悲劇に終わった後も、基礎研究者は頰被り。反省もせず、何も学ばなかった。今も同じ調子で、制御制T細胞は他のT細胞と全く違う特別な細胞であることを前提に臨床応用が準備されている。同じレベルの未熟な知識のままさらなる臨床応用を目指しているのである。

2.制御性T細胞の根幹の論文が追試不能であるということーThere is no such thing like Treg
何かがおかしいと思ったが、学問分野全体が思考停止している中で独自に物を考えるのは結構難しい。

5、6年考えつづけると問題の源泉がみえてきた。まず研究者のあいだに制御性T細胞はほかのT細胞と全く異なるものであるという強い思い込みがあることだ。この思い込みは、免疫学会内で制御性T細胞のブームをつくった1996年のJournal of Experimental Medicineに掲載されたAsano et alの論文 に始まる

坂口志文教授の書いたAsano et alの論文で制御性T細胞の分野が格段に発展したのは間違いない。問題は、Asano et al論文のコアデータ(=制御性T細胞は時間的に特別な発生)が追試不能であることだ。これは私自身何度も確かめたし、複数の論文が証明したが、制御性T細胞分野は論文量が多量すぎて理解がゆきとどかず、免疫の教科書・レビュー論文はいまだに間違った論文にのとって書かれている。

私は臨床試験を失敗させるような制御性T細胞理論の欠陥のひとつは追試不能なAsano et al論文にあると直観したので、2013年にまずはこの追試不能なデータが制御性T細胞分野の根幹にあることがどのような影響を与えているかを分析した論文を完成させて、Immunol Cell Biolに掲載し、頭の中を整理した。

ひとことでいえば、今皆が思っているような特別な制御性T細胞は存在しないようだということがわかった。しかし、こんなことを免疫学会で話しても、気が違ったと思われるのがオチである。この直観を学問的に検証しなければならない。

3.心理学に学んで免疫学をみる
制御性T細胞が特別な細胞ではないとするなら、制御性T細胞とほかのT細胞(ナイーブT細胞・エフェクターT細胞など)はどれだけ似ていてどれだけ違っているのかを定量的に示さなければならないはずである。この問題を考えるうえで役立ったのは教養のときに勉強した計量心理学の知識であった。

林の数量化III類は、心理学やマーケット調査で使われるが、この問題を考え出した2008年当時、医学生物学内でその発想を持っているひとは皆無であった。そこで京大の心理学の杉万教授および近縁の多変量解析を研究している工学部の加納教授にお願いし、個人教授してもらい、林の数量化III類を免疫学のデータに実際に適用してみたが、どうも免疫学の自分の持っている問いに直接答えてくれないことに気がついた。

当時私は保守的な日本の学会で制御性T細胞の研究を続けることをあきらめ、Human Frontier Science Programのフェローシップを獲得してUCLに留学していた。やりたかったことは決まっていたので、そのときあえて「ラボで研究が行われていない」研究室を選んだ。そして3年間の時間を手に入れて、大英図書館で文献にあたりながら、この問題にとりくんでいた。
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そしてフランスに渡り日本とフランスの統計学の歴史を紐解くという話があるのだが、今回は割愛する。とにかく、林の数量化III類の亜型の解析で、環境学で発展した正準対応分析(Canonical Correspondence Analysis)を発見し、これを医学生物データ解析に適応した。この方法により制御性T細胞のデータを解析してみると、予想した通り、制御性T細胞は特別でもなんでもなく、他の活性化T細胞とよく似ているのである。

実際にメラノーマ患者からとってきた腫瘍の個細胞(シングルセル)解析データからT細胞データを抽出して各々のT細胞を正準対応分析で解析してみると、腫瘍の中で腫瘍に反応して活性化したT細胞から制御性T細胞およびエフェクターT細胞が常に生まれ続けている様子がみえた。
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ここらへんで免疫学者もわかってくれるかと思ったが、問題は多くの免疫学者がデータ解析に不慣れであることだった。やはり実験で示さないとピンとこないようだ。

4. T細胞の時間をはかるーTocky(とき)の開発
免疫反応中に活性化T細胞から制御性T細胞が生まれるのかどうかは、時間軸をみないとわからない一方、現在の免疫学の技術では個々の細胞の時間を測定できない。そこでタイマー蛍光タンパクを使用して生体内時間を測定する技術Tockyを5年かけて開発した。この研究では、抗原刺激によりT細胞がタイマー蛍光蛋白が発現するマウスを作製した。タイマー蛍光蛋白は、蛋白になった瞬間は青い蛍光を発すが4時間で赤い傾向に自然に成熟する。この特性を利用し、細胞がいつ頃分化シグナルを受容し、継時的にどのように活性化したかを計量的に分析するというものである(論文はThe Journal of Cell Biologyに掲載)
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このTocky技術をつかって炎症がおきている組織内でT細胞がどのように変化しているか解析すると、実際に活性化T細胞から制御性T細胞が出現していることがわかった。つまり、制御性T細胞は「警察官」である、という視点は間違いで、個々の細胞に「ギャング」と「警察官」の役割をもつ時間がありうるということがわかった。

実際にはもっと細かい分子生物学の話があるのだが、そこはまた別の機会に譲るとして、とにかくこれをThe EMBO Journalに掲載した。

この研究は所属のインペリアル・カレッジ・ロンドンのホームページのトップ記事として紹介してもらえたので、そのスクリーンショットを貼っておく。
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このことは、制御性T細胞は他のT細胞と異なるとして区別して研究すること自体が危険だということことを示している。たとえば、制御性T細胞を標的にしたと思っていても、次の瞬間にはその細胞はエフェクターT細胞になっているかもしれない。これでは精密な免疫療法の開発は無理である。

ここまで制御性T細胞を利用した免疫療法(TGN1412)の臨床試験(エレファントマン臨床試験)からの12年の自分の研究を振り返って見た。エレファントマン臨床試験が大きな事故・惨劇に終わったことに、基礎免疫学の制御性T細胞研究者は責任があると思う。そして私は専門家として12年かけて一定の責任は果たしたと自負している。
posted by 小野昌弘 at 03:01| 科学・研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月14日

ニューシネマパラダイスの時代と記憶:20年前をふりかえって今を見つめる

映画や音楽はしばしば言葉にならない記憶を固定してくれる。

みなさんご存知の映画ニューシネマパラダイスは、56年生まれの監督トルナトーレが、32歳のとき撮った、彼の一番の人気作だ。この映画は、第二次大戦を過去のものとしたイタリアが、将来を夢見ることが誰しにも許された平和な時代への愛情と、そういう明るい空気の中での幼少・青年時代への郷愁を歌いあげた作品だといってもよい。また、過去を省みることでいまの自分をみつめて成長する、芸術家としてのトルナトーレの自立の物語だともいえよう。

私がこの映画を観たのは少し遅れての90年代はじめだが、この映画の音楽はいつも当時の空気を思い出させてくれる。その頃の大学生はまだ人生の先行きに(バブル崩壊後の若干の不安がありながらも)楽観的だった。そして皆が戦争や差別が存在してはいけないのは当たり前のことだと思っていたし、そういう世界がいつまでも続くことを疑っていなかった。

あれから20年、ずいぶん時代が変わった。この変化を、外国のせいにする人と、自分たちの未熟さに帰する人とで、政治に対する姿勢、選挙における選択は大きく分かれるように感じている。

最近多くの人がいう。日本の周りの環境が変わってしまったからね、と。そうだろうか。確かに探し出すと危険はいくらでも見つかるかもしれない。でも、それは今に始まった事ではないし、いつの世も、どんな場所に生きていても、多少の危険など存在する。そもそも、自分がうまくいかないことを外国のせいにするのは情けないことだと思う。

また最近、「平和ボケ」とかいう言葉でごまかして、戦争を辞さないような勇ましいことを言う人が増えたようにも思う。しかし私はこういう人たちこそ腰抜けだと思う。そういう野蛮な行為のせいで外交がうまくいかなくなったときのしわ寄せがどこに来るのかの想像力もなしに、自分の責任がとれないことを口にして社会をかき回すのは卑怯なことだ。本当の危険に満ちている国際社会では、容易に勇ましいことを言うものでは決してない。外交の原義である"diplomatic"という言葉は、もともと、深謀遠慮をもったうえで角が立たないように物事を進める能力を言う。つまり外交とは、勇ましいことを吠えるだけの野蛮さとはおよそ縁のないものである。そういう外交のがの字も分かっていないような輩が国政をかき回すようになったら、たしかに戦争が現実のものになるだろう。しかしそうなったとしても外国のせいではない。日本の自業自得である。

そもそも、周囲の国がどんな振る舞いをしていたって、自分がしっかり自立して周囲の模範となることを目指せば良いではないか、と思う。世界にはそれくらいの余裕はあるし、成熟した国であるはずの日本にはそういう役割が期待されている。もし日本が大人の国であるならば。

だから私は、今日本が直面している困難は、自分たちが未熟だからこそ至ったものだと考える。外国のせいにしたり、自分たちの過去についての言い訳をするのは、恥ずかしいことで、自立していない未熟な証拠だと思う。

人々が自立して、国が自立する。そうしてこそ、今の閉塞した時代の空気が明るいものに変わり、心安らかに自分の生きる時代を愛せるときが、またいつの日か来るものと信じる。

(ヤフー個人、筆者の2014年12月14日記事より転載)
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2014年12月13日

格差社会と選挙

今回の選挙の大きな争点の一つは、格差社会の拡大を認めるかどうか、だと思う。

格差が広がりすぎると、そして生まれで全てが決まる階級社会になると、社会が荒む。日本の持ち味が失われ住みにくい国になり、やがて国としての競争力も落ちる。英国は階級の存在が重荷で、こういう悪い点は真似してはいけない。アベノミクスの恩恵を感じない人・勝ち組両方とも真剣に考えるべきだろう。

もしアベノミクスが本当に成功していたとして、現時点で自分が何ら恩恵を感じていないなら、今後も恩恵は得ることはないだろう。つまり安倍政権が続いて格差社会が拡大して日本が上流層と下流層に二極化したとき、自分が下流層になることを意味する。

ネットで出回っている画像だが再度紹介する。
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巷で子供をよい学校にいれるのに必死な中流の家庭を見たことがあろう。彼らは自分の子供が下流に転落するのを恐れて「バスに乗せよう」としている。でも、その努力を少しでも政治を変えることに使って、格差社会を縮めて誰もが自分の人生を楽しめる社会にできたら、そんな心配をする必要もないのに、と思う。自分だけのことじゃなくて、少しだけ周りのことを考えれば、何を選択していくべきか、見えてくると思うのだが。

私自身は医者だが、医者で安倍自民のアベノミクス政策を支持する人もいるようだ。それは自分たちの懐が恩恵を被っているからかもしれない。でも、大多数の患者が安倍政権下で消費税増税になどの締め付けで、より苦しい生活をしていることに気がついていないはずはなかろう。仮に医者なら、心はいつも患者に寄り添い、貧富の差別なく患者を助け、患者の生活と幸福を第一義に考えるのが医者のあるべき姿じゃなかったのか。この医者として一番大事な価値を忘れてしまったのだろうか。

日本の個人主義がまだ未熟なせいだろうが、悪い部分だけ助長しているように思う。しかし個人主義は一度目覚めたら、戻ることはないので、これからは、公益を大事に考える個人主義という良い方向に伸ばしていかなければならない。別の言葉で言えば、多くの人が、もう少しだけ、自分の周りに目を遣れるようになれば、社会はもっと良くなるのに、と思う。
posted by 小野昌弘 at 22:39 | TrackBack(0) | 政治・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする