2010年10月14日

「市民」が検察を飲み込んだとき何が生まれるか

検察審査会は司法機能の脆弱性であることが露呈している。ウイルス感染のようにここから侵入されて司法機能がハイジャックされつつあるようにみえる。(脆弱性が意図的に用意された可能性あり)。そして、病原体のように、顔が見えず得体の知れない「市民」と「選定弁護士」たちが司法を恣意的に運用し始める。

検察組織の腐敗が表のメディアでも明らかになりつつあるこの状況で、「誤った検察」を糾弾する存在として検察審査会の「市民」が登場したのは偶然ではなく、計画的な筋書きがあると思う。この筋書きが受け入れられたならば、両者(検察組織と「市民」という権力)とが矛盾なく共存する。

このままでは「市民」が超法規的存在になってしまう。このような存在を決して容認してはいけない。超法規的存在は、いつの時代で最も危険。かつての治安維持法であり愛国者法である。今、「市民の判断」がそれになるのか。一度この存在を容認すれば、現行の検察組織よりもさらに恐ろしい怪物が生まれる。

いま検察権力をハイジャックしようとしている「何か」は、マスコミと歩調をあわせている。無論、マスコミは特定の外国と協調。これらの中心にあるものが社会の生命を左右する病原体である。今こそ、責任をとらない「市民」よりも、責任をとる政治家が優位であるという、間接民主主義の原則を確認したい。

(2010年10月6日 小野昌弘@masahironoつぶやきより)

人気ブログランキングへ
posted by 小野昌弘 at 04:38 | TrackBack(0) | 政治・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。