ウィキ-リークされえる世界で生きるか、それともインターネットを閉鎖するか。それはあなたの選択だ。
John Naughton, 英ガーディアン、 12/6
「良い危機を生かさない手はない」という言葉は、オバマ氏のチームが大統領選出馬のときに使ったキャッチフレーズである。この精神で、ウィキリークスによる暴露にたいする公的な反応から我々は何を学べるか、考えてみたい。
ここで全く明瞭な教訓は、今の状況は、既存の社会秩序と、ネットの文化が初めて現実にきびしく対決するに至ったことを意味していることである。これまでにちょっとした小競り合いはあったものの、今回のは本物だ。
そして、反動の動きが展開されている。まずは、存在が否定されているもののウィキリークスに提供していたインターネットサービスのプロバイダーに対する攻撃があり、その後に、Amazon, eBaym PayPalといった企業が、突然彼らの契約条件の中にウィキリークスにサービスを提供してはならない条件を「発見」した。その後、米政府は、ウィキリークスについてFacebookに投稿しているコロンビア大学学生をを脅迫しようとした。こうした旧秩序が我慢できない事態になっていることが、これまでぼんやりとしかみえない薔薇色の霧の中から垣間見えてきた。この反応は、非難されうるものであり、巧みなものであり、理解されうるものではある。それとともに、この反応の中には、民主主義およびネットの将来について案じている全てのひとたちにとって、厳しい教訓が含まれている。
ここには、リベラルな民主主義といわれるものが、ウィキリークスを閉鎖しようとしているという、実に味わい深い皮肉がある。
たとえば、米国政府がこの1年間でどれだけ立場を変えたかをみてみよう。1月21日に、ヒラリー・クリントン国務長官は、ワシントンDCにおいて、インターネットの自由について画期的な演説を行った。この演説を多くの人々は歓迎し、グーグルへのサイバーアタックを行ったとして中国を非難するものとして受け止められた。「情報はかつてないほど自由である」とクリントンは宣言したのである。「独裁政治が行われている国家でさえ、情報のネットワークは、人々が新しい事実を発見すること、政府に説明責任をはたさせることを支援しているのだ。」
クリントンは2009年11月の訪中の際に、先の言葉に続くものとして、バラク・オバマがどれほど「人々が自由に情報にアクセスできる権利を擁護していたか」について語った。「(オバマは)より自由な情報があれば、より強い社会が得られると言った。オバマは情報にアクセスすることは、市民が政府に説明責任を果たさせ、新しい発想を生み出し、創造性を促進させるうえでどれほど重要かについて語った。」今我々が知っている事について鑑みてみると、クリントンの演説は傑作の風刺文章として読むことができる。
おそらく、西側民主主義国家の政治のエリートたちがどれほど彼らの選挙民たちをだましてきたかが晒されてしまったから、政府関係者たちはヒステリックに反応しているのだろう。
リークは米・英・欧のアフガニスタンへの冒険がすっかりしょげてしまっていることを明らかにしただけではなく、さらに重要なことに、米国、英国、および他のNATO諸国の政府が、非公式にそれを認めているということを余すところなく明らかにしている。
問題は、彼らが自国の選挙民、すなわちこの馬鹿げた事業に金を出している納税者でもありえる人たちに顔向けできないといことなのだ。リークされた米大使からアフガニスタンへの特電をみれば、カルザイ政権が、70年代に米国が支えていたサイゴンの南ベトナム政権と同じ位汚職にまみれており、能力がないということを鮮やかなまでに確認できる。また、このリークは、米国がベトナム出そうであったのと同じように、アフガニスタンの政権の囚われ人となっていることも明らかにしている。
ウィキリークスの暴露は、米国とその同盟国が、アフガニスタンを生存可能な国家に変えること、ましてや、民主主義を機能させることになど何の見込みもないのだということを晒している。リークをみれば、このトンネルの先には一筋の光明も見えないのだということが分かる。しかし、ワシントン・ロンドン・ブリュッセル(米・英政府、EU)の政治エスタブリッシュメントたちは、この現実を認められないのだ。
アフガニスタンは、この意味において、ベトナムとおなじような形で、泥沼なのだ。唯一の違いは、戦争が徴兵された軍によって戦われているのではなく、また我々は絨毯爆撃を行っている文官ではない、ということだけだ。
ウィキリークスへの攻撃をみて、クラウド・コンピューターのプロバイダーがどちらの立場にいるかについて薔薇色のファンタジーにひたっている人たちは目を覚まさなければならない。これらは、Google, Flickr, Facebook, Myspace, Amazonといった会社であり、これらの会社はあなたのブログやデータ保管庫をネットのどこかの上で提供して、またネットのどこかに存在する『ヴァーチャル」コンピューターを貸し出している。これらの「自由」な使用と、決済サービスを使うときの使用条件によって、これらの企業は、自社の利益にかなっていると思われるときにあなたのデータ内容を置いておく、という立場を確保しているのだ。ここでのモラルは、クラウドコンピューティングではあなたの信念をおいておいてはいけない、もしそうしたならばいつかそれは台無しになるでしょう、というものなのだ。
Amazonのケースをみてみよう。Amazonは、情勢が厳しくなったその瞬間に、ウィキリークスをAmazon EC2というクラウドサービスから追い出した。どうやら、Joe Liebermanという米国上院議員がごう慢病の末期患者らしく、この件についてAmazonを威嚇したのだ。後にLiebermanは、「Amazonにウィキリークスとの関係の深さについて、また、Amazonおよび他のプロバイダーが、各社のサービスを将来盗まれた機密情報を配布することに使わせないために何を行うつもりなのかについて尋ねた」と堂々と述べた。これを受けて、ニューヨーカー誌のAmy Davidsonは、Lierbermanに対して。「ニューヨーカーがリークされた機密文書を含む内容を用意しているとき、Lierbermanあるいはほかの上院議員がニューヨーカーを刷る印刷機を操縦している会社に電話をかけ、その発行を止めるように言うことができると思っているのかどうか」について尋ねた。
ウィキリークスが現実に晒しているものは、西側の民主主義システムがどの程度空っぽかについてである。この10年間で、政治のエリートたちは、無能であったこと(アイルランド、米国、英国が銀行を規制しなかった)、汚職にまみれていたこと(兵器売買に関わった全ての政府)、そして無鉄砲なまでに軍国主義的であったこと(イラクにおける米国と英国)が明らかになった。しかしながらこれまでこれほど効果的なやり方で、このエリートたちが説明を求められることはなかった。そして、エリートたちは説明をする代わりに、自分たちのやり方をあいまいにして、嘘をつき、怒鳴りつけてもそのやり方でやり通してきたのだった。そしてついに、秘密のベールがもちあげられたとき、エリートたちの反射的な反応は、その配達人(アサンジ)を殺せ、というものであった。
Simon Jenkins は最近ガーディアンに、「暴露はやっかいなことであり、モラルと法の境界を試すものだ。暴露はしばしば無責任であり、たいてい困惑させるものだ。しかし、何も規制が行われず、政治家たちが服従させされ、法律家は沈黙し、聴衆は堕落していたとき、暴露というものが最後に残されたものなのだ。説明責任は、結局のところは、暴露になる。」 我々の民主主義国のかんかんになった官僚から聞こえてくるものは、ネットにより服をぼろぼろにされた王様たちの不機嫌な叫び声なのだ。
この論争の大きな意義にもどろう。西側民主主義国家の政治のエリートたちは、インターネットは独裁政権の側だけではなく、彼らの側にも突き刺さるとげなのだということを理解した。エリートたちとその代理店たちがネットを踏みつけようとしている様は、狂った半盲の巨人がもぐらたたきをしているかのようであり、喜劇ですらある。おびえたインタネット企業たち(これまでのところTwitterは例外だが)が彼らの意思の前に屈服している様子をみると、深く憂慮せざるをえない。
しかしながら、今、政治家たちは苦しいジレンマに直面している。古い、モグラたたき的アプローチは通用しない。ウィキリークスはウェブテクノロジーに依存しているだけではない。これらの公電文書(cable)の数千、いや多分それ以上コピーが、BioTorrentのようなピアツーピア技術により、ウィキリークスから外に拡散しているのだ。我々の統治者たちは、選択をしなければならない。ウィキ-リークされえる世の中に住むのか、ただしこれは統治者達の将来の行動について含まれている意味すべてを受け入れた上で、になる。それとも、インターネットを閉鎖するのか。政治家の皆さん、さあ、どうぞ。