2011年05月10日

4月20日赤坂BFlatで思ったこと

4月に日本を訪問したのですが、その滞在中一番印象深かったのは、実は、八木啓代 @nobuyoyagi さん、郷原先生 @nobuogohara らの4月20日赤坂Bflatでのライブ でした。

音楽の充実ももちろんのことながら、感銘をうけたのはライブの構成です。さりげなく2つのラインが埋め込まれています。一つは検察問題から原発問題への連続性。もうひとつは今私たちが直面している状況とラテンアメリカ・スペインの民衆の歴史の連続性です。そしてこの2つのラインは交差します。

ライブは3部構成。第一部では八木さんの自己紹介としての歌からはじまり、検察官を歌手がたらしこむジャズ曲を前座として、元検察官の郷原先生が参加します。郷原先生の選ぶ曲がアウトローなものばかりのは偶然なのか、必然なのか。それにしても郷原先生のアイドル張りの熱唱は必見でした。

続く第2部では八木さん、郷原先生、大熊ワタル@ohkumawataru さんのトークにより、コンプライアンスをキーワードとして、具体的に検察問題と原発問題がどのように連続であるかが語られます。そして、第3部はスペイン語圏のディープな歴史から日本の歴史への橋渡しです。

八木さんは「鳥の歌」をカタロニア、バスク語で歌います。独裁下で禁じられていたとはいえ、その地方の民衆にとっての意味はすぐには分からない。しかし、その後の忌野バージョンでの「放射能はいらねえ」への観客の(このライブ初めての)大きな拍手喝采で、この一見無縁な二つの世界がつながります。

八木さん・郷原先生らのライブの最大の成功は、今私たちが、この圧倒的に大きな権力構造の中で窒息しそうになりながら、放射能におびえ、しかもそれを口にするのすら憚っている状況が、スペイン語圏で民衆が経験してきた圧政とそれに対する抵抗の歴史に見事につながったことです。

それにしても、ライブでなければ伝わらなかったのは、舞台の上での八木さんの恐ろしいまでの迫力と美しさです。「紅の豚」に出てくるシャンソン歌手のようなはかない美しさから、一流の舞台人しか持つことができない狂気を感じさせる迫力まで。これは録音や録画では決して伝わらないでしょう。

最後にもうひとつ、八木さん・郷原先生らのライブで印象的だったのは、大熊ワタルさん@ohkumawataru のクラリネットが面白かったこと。正直、この日まで、クラリネットがこれほど楽しい楽器とは知らなかった。先日の高円寺デモで彼が演奏していたと聞き、参加できなかったことが実に残念。

(後記)先週の渋谷デモでは八木さんと大熊さんらのシカラムータとの共演があったとのこと。私は遠方で参加はかないませんでしたが、その場での彼らの音楽を聴きたかった。その音楽は、きっと、音楽とは礼儀よく椅子に座って(いや、立っていても同じですが)払った金額に相当する娯楽を受け取ることを目的にした聴衆のためにあるだけの存在ではないことを力強く見せてくれたことでしょう。音楽の演奏とは、音楽が奏でられ歌われるその根底にある衝動と意味を演奏者と聴衆がともに発見することで、自らの世界を新しく定義づける作業そのものであることを教えてくれたことでしょう。参加できた方は幸運です。

今の日本では、つぶやきが言論の希望であるのと並行して、こうした民衆のための音楽が、言論封鎖の中で瀕死の状態まで追い込まれた言葉や思考を、血が通い感情ある自らの中に取り戻し、ひとりひとりが自立した人間として立ち直るための希望かもしれない、とこのごろ思います。

共感して下さった方、いつかの八木さんのライブでお会いしましょう。
posted by 小野昌弘 at 08:26 | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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