2014年10月01日

人種差別主義(レイシズム)という情念と文明からの退行

近代的精神と人種差別(レイシズム)からの脱却
人間も他の動物と同様、自らと異なるものを排除しようとする傾向があるが、これは動物的で未熟な部分である。そして、人種差別主義者(レイシスト)とはそういう動物的な行動で群れて少数派を威嚇する集団で、軽蔑されるべき社会の恥部だ。こういう未開者の暴力を公共の場所から排除することは、社会の公正と文明の程度を保つために必須のことである。

個人の成長という観点からすれば、人間は誰しも未熟な状態では人種差別に陥る可能性がある。人格(あるいは内面、魂、心性、精神、といった別の言葉で表現してもよい)よりも外観を優先する思考パターンはすべからく人種差別に繋がる。人間性の中核には人格があり、それは人格がまとっている衣にすぎない肉体とは無関係のものであるという信念こそが人種差別主義と無縁な近代的精神だ。そうした近代的精神の獲得のためには、個人が成長していく過程で、自分が人種差別主義から逃れているという思い込みを捨てて、常に意識的に自分自身の思考と行動を自分で批判しつづけなければならない。あるいは、他者に対する思いやりを深く持って、すがたかたちを超えたところに人の本質を見いださなければならない。

これは誰でも努力すれば可能なことである一方、努力しなければ得られないものでもある。そして皆がこうした見解を共有し、問題意識を持ち、自己の成長に努力するようになることで、幅広い背景を持つ人たちが参加した公正な社会が作れる。そして社会のリーダーとなる人たちには、とりわけ強くこうした近代的精神、あるいは人々に広く公平に接する度量を持つことが要求される。

ところが、こともあろうに今の安倍政権中枢には、在特会と癒着した山谷国家公安委員長、ネオナチと関係した高市総務相といった人脈から人種差別主義者が入り込んでいる。これはつまり、日本の中枢の文明度が低下していることを意味する。そして在特会の下品な横暴の数々を見れば、政権とともに日本社会が今急速に劣化していることも分かる。

弱者への暴力
「無抵抗の老人を殴り蹴る在特会」というYouTube動画が話題になっている。動画によれば2012年6/3に新宿で起こった事件だ。在特会の演説中に、「うるさいよ」とひとこと言っただけの老人に対して、それより数倍も若い連中が襲いかかった。動画のテロップによれば「桜井会長」という在特会会長が中心人物とされる。周りの警官は眺めているだけで、暴行の現行犯であるにもかかわらず逮捕しようという様子はない。

これだけではない。日本の人種差別主義はいつのまにか白昼堂々と大手を振って歩くようになってしまった。堀茂樹氏(@hori_shigeki)は人種差別主義者の街頭行動の動画を紹介して言う「子供でなく大人なら、同じ人間として、同じ日本人として、このヘイトスピーチを聞く必要がある。わが国では、こんな卑怯者が白昼まかり通り、警官に即時逮捕されないでいるのだ。」見るに耐えかねる動画であるが、これは間違いなく今の日本の現実の一部である。

こうした在特会・人種差別主義者の横暴で日本の世相はすっかり醜くなってしまった。多くの日本人はおそらく、こうした極右のことは相手にすることもないと高をくくっているうちに、事態は悪化を続け、ついに政権内へも人脈を伸ばし、人種差別主義者の勢力はますます勢いづいているようである。

汚れてしまった国の品位と誇りを取り戻すためには、やはり政権中枢から真っ当ではない人脈を排除するように強く求める必要があると思う。安倍政権を支持する人も多くは日本の品位を貶めるここまでの異常な事態を望んではいないだろう。

政権の闇
エコノミストが最近日本のヘイトスピーチ(差別暴言)についての記事を掲載した。
在特会の醜い人種差別・暴力を詳説し、さらに安倍内閣への拭いがたい疑念を隠さない。国家公安委員長・拉致担当大臣の山谷えり子氏と在特会元幹部の関係、歴史修正主義者としてすっかり欧米で有名になった高市総務相とネオナチの関係、さらにはヘイトスピーチ規制法を利用して民主的デモの抑圧しようという卑怯を通り超えて支離滅裂な高市氏の主張を紹介している。

ここまで詳細にエコノミストに在特会の正体を描かれて、しかもそんな「ごろつき」と閣僚が関係していることを書かれるとは。これで更迭しないなら安倍首相の責任、政権の国際信用失墜。そしてこんな下劣な閣僚たちを戴いて恥じない日本国民もまた軽蔑されることになる。

こうして日本での人種差別主義団体が伸張、内閣に繋がっているという、恥ずかしいことばかり並んでいる記事だが、日本市民によるカウンター行動が人種差別による暴力が歯止めになっていること、大阪高裁で在特会が敗訴して賠償金を課されたことの2つが救いか。在特会はカウンター行動を逆に自らの正当性に利用しようとしているようだが、そうした卑小な詭弁は国際社会では通用しない。

切れない関係
国家公安委員長・拉致担当大臣の山谷えり子氏が最近外国特派員協会で記者会見を行った。ここで山谷氏は記者たちから在特会との関係や、在特会のもつ人種差別思想への姿勢を問われたが、氏はこうした真摯な質問を無視し、回答をごまかしつづけた。そして、在特会の問題視を拒否、同会の人種差別思想を否定することも拒否、差別暴言の問題を、カウンターデモを行っている側を意識した様子で社会の小集団同士の諍いに矮小化する始末である。氏が語る言葉に論理も知性もない。あるのは口ごもった言葉にならない曖昧模糊とした呟きだけである。こんな人物が大臣である嘆かわしい現状を全ての国民が見るべきと思う。

人種差別を否定しないということは、山谷国家公安委員長は人種差別主義団体、在特会の思想・行動を容認しているということに他ならない。すなわち山谷氏自身が人種差別主義者であることを否定できないという意味だ。さらにいうと、外国人記者たちの鋭い質問を無視し、ここまで入念に在特会の批判を避けたということは、今なお山谷氏は在特会と強い結びつきがあると考えるのが自然だ。

今の先進国で閣僚、しかも警察を監督する立場のものが人種差別主義者である国はあろうか。山谷氏の記者会見は大きなスキャンダルである。こうした人物が大臣であるということは異常なことであり、一過性の間違いであると思いたい。この事態が当たり前になったときには、日本は文明国であることを棄てたと言うべきなのだから。こうして人種差別を批判できないような人間を閣僚にしている日本の有権者はいま世界に向けて恥を晒し続けている。

(Yahoo個人 筆者のページより転載)
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2014年05月18日

「美味しんぼ問題」の原因は政治の機能不全にある

週刊ビッグコミックスピリッツ連載の「美味しんぼ」で、東京電力福島第一原発事故をめぐり、主人公が鼻血を出す描写があったことについて、安倍内閣の閣僚が13日午前の記者会見で相次いで批判したとのことである。この問題では福島の自民・民主も抗議声明を出している。

それにしても、「美味しんぼ」という1漫画に鼻血を書かれたくらいで、政治家から地方自治体までうろたえるほど福島の状況に自信がないというこの現状は根本的におかしいのではないかと思う。

そもそも冷静に考えて、読者が(科学の専門家ではない作者がかいた)漫画の内容を鵜呑にするのではないかと慌てふためくほうがおかしい。放射線のことは放射線専門家の言うことに耳を傾ければよいわけなのだから。もし科学について、科学の専門家が言うことよりも非専門家の書いた漫画のほうを信じるとしたら、それは病的な事態だ。

もっとも、こうした漫画のほうを重要視する人がいても、その背景がないわけではなかろう。たとえば、「美味しんぼ」の出版を受けて、福島選出の根本匠復興相が、放射能の不安をぬぐい去るための「リスク・コミュニケーション」(リスク教育)の充実を求めたというが、リスク・コミュニケーションの目的が「放射能の不安をぬぐい去る」になっている時点で、科学的には安全だという結論ありきな姿勢が透けて見える。つまり大臣がこうした言葉を軽々しく言っているならば、そのリスク・コミュニケーションは既に失敗していると言わざるを得ない。

もし「美味しんぼ」が、(批判しているひとたちが言うような)「不適切な」効果・「風評被害」につながるのだとしたら、それは福島における放射線管理・政策・リスクコミュニケーションがうまくいっていないからだ。こう考えたとき、安倍政権の閣僚たちが過剰とも言える反応を示したことは皮肉的である。

ところで、漫画家を含む作家は、現実に存在するのに言葉になっていないことを語るの大事な役割がある。福島で鼻血の話は、私の持っている基本的な医学知識からは考えにくい(参照)。だが、3.11以来被爆にまつわるそうした健康上の恐怖が巷にあったことは確かだ(ネットを使う人ならばこうした不安が囁かれるのを誰しも一度は見たことだろう)。それならば、人々が持っていたその恐怖が漫画に描かれることに何の問題があるだろうか。公的空間から切り離されたところで、こそこそと自らの信じる「真実」を囁き合い不安を助長し合う状況があるならば、それこそ不健全である。こうした不安や恐怖が存在しているならば、それを表の空間に引っ張りだして来て、関係する様々な人々(利害関係者)が集まって科学的見地を入れて話し合い、やがては政治交渉(negotiation)によって(調査、問題の対応といった)現地での政策に反映していくべきではないか。

言葉で語られて初めて議論もできる。言葉に語られないものは存在しないも同然である。存在しないものを巡る政治交渉はありえない。つまり、言葉で語られないものは政治的に解決できない。そしてこうした真空空間が大きく存在することで社会の活力が削がれていることこそが、言論の自由に制限がある国の特徴だろう。

本来言論人は、こうした言論の真空空間を狭めるために努力し続けるべき存在だ。特に表現形式に自由がある漫画や小説などの作家がタブーに挑戦するべき理由はそこにある。そして福島における放射線問題はタブーにすらなりかけている。それゆえに全国に流通する媒体を使って、問題を表に引っ張り出すること自体は大事なことだと思う。

今や放射線問題は政治的だ。そして「美味しんぼ」は政治的だ。それは何ら責められる事柄ではなく、問題を議論の俎上にのせてより広い人々の政治的合意にむけた政治交渉を進める契機になるならば賞賛されるべきことだろう。忘れてはいけないのは、「放射能の不安をぬぐい去る」ための作品は同じくらいに政治的であるし、もっと重要なことは、これまでも政治的な漫画作品が、特定の政党(自民党)の政策にそぐうようにはるかに組織的に「原発推進」のために大量に作られて来た事実だ。しかもこちらは血税に由来する金を使って、である。 

個人の作家が信念に基づいて(強い政治権力をもっている側を)批判することに目くじらをたてて、特定の政党が多量の税金を使用して組織的に国民に偏った情報を流し続けることのほうは気にならないのだとしたら、その感覚は民主社会に生きる者としては何かが大きく欠如している。
posted by 小野昌弘 at 18:06 | TrackBack(0) | 政治・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月21日

STAP問題で明らかになった科学評価システムの制度疲労 (下)問題は理研とNatureにとどまらない

(下)問題は理研とNatureにとどまらない
STAP論文が明らかにした科学評価の形骸化という問題を見ていると、アメリカの赤狩りでマッカーシーが用いた詭弁を思い起してしまう。

マッカーシズムの語源となった米国、共和党の政治家であるマッカーシーは、冷戦時代にアメリカでの過激な反共産主義運動=「赤狩り」を主導した政治家だ。この運動は実質的に共産主義とは関係ない、魔女狩りになって、後に深く反省されたものであるが、マッカーシーの煽動のスタイルは、いつも大きな書類の山を政治家や記者たちの前に見せて、「この中に証拠がある」と言い、煙に巻いたが、実際にはその何百ページという資料をみても、どこにも「赤狩り」を正当化する証拠は見つからなかったという。

最近の有名雑誌の論文は補助的なデータもあわせるとデータ・記述が多すぎて読み切れない。査読を担当する研究者は、何の報酬もなく論文を批判的に読んで問題点を指摘しなければならないが、過剰な競争のもとでますます忙しくなっている研究者にとって、査読の負担はいよいよ大きくなってきている。

Natureは最近補助的データの量を制限しだしたが、それでも実際、STAP論文は2つの論文にふくれあがっていた(本来一つの論文でもよかっただろうに)。STAP問題は、ここ最近医学生物学で助長していた、複雑化した実質のない論文が横行する=研究のマッカーシズム化=の行き着く先だったのかもしれない。

科学評価システムの実質がなくなり形骸化しているならば事態は深刻だ。なぜなら、各国政府は、Natureが象徴する科学の評価システムに依拠して、多大な税金を医学生物学研究に注ぎ込んでいるからだ。その評価システムが信用ならないとなると、今のような多額の税金を注ぎ込むことはもはや正当化されない。

Natureという権威が張り子の虎で、さらにはインパクトファクターという評価システムが、単なる科学者ギルドの守り神でしかなく実際には役立っていないものならば、研究者の評価システムはいずれ抜本的に改革されなければならない。そうなると有名科学雑誌も存続が危うくなる。

最近、ノーベル賞を受賞したシェックマンが、Nature, Cell, Science に対する強烈な批判を展開した。シェックマンはeLife という米英独の巨大研究組織が合同でつくった新しい雑誌の編集者であり、この雑誌はもともとNatureらの古い権威に対抗する新しい権威作りを目指して始まったものだ。

古い科学の権威に対抗する新しい動きが既に始まっている。科学研究体制の抜本的改革が避け難いのと同様に、科学評価システムの再編も必ず起こるだろう。
posted by 小野昌弘 at 00:13 | TrackBack(0) | 政治・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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