2014年06月10日

嘘とポエムと内部告発

1.その場しのぎの嘘
どうやら今の日本社会では「その場しのぎ」がかつてないほど流行しているようだ。STAP騒動の顛末は、そもそもの始まりの論文作成から今の理研の対応に至るまで、「その場しのぎ」で塗り固められた不祥事であったことが明らかになってきた。ES細胞やiPS細胞とちがって胎盤にも胎児にもなる能力があるとしてNatureの論文になったSTAP細胞は、(すくなくともその該当実験は)胎児になれるES細胞と、胎盤になる能力のある幹細胞「TS細胞」を混ぜたものであった可能性が高いことが、理研の遠藤高帆・上級研究員による独自のデータ解析により明らかにされたという。

こうした小細工で無意味なデータをつくり論文を出しても、やがてぼろが出るのは明らかだ。どうしてそんなことをしたのだろう。科学の進歩ということについて少しでも理解しているひとならば、まさかそんなことはしないだろうと思う、信じ難い話ではある。

しかし、われわれの生きている社会が、その場しのぎで嘘でも何でも許されて、それどころかむしろ得さえしてしまう社会ならば、こうした信じられないような事態が横行しても、さして不思議ではない。

考えてみれば、これはSTAP騒動に始まった話ではない。つい数年前の未曾有の原発大災害で、東電や政府、官僚、科学者がその場しのぎの嘘や言い訳ばかりすることで、事態に明確な責任を誰もとらないまま今日に至っている。証拠捏造して冤罪をつくりだしてきたことが明らかになった検察組織も、同じように誰も明確な責任をとらないまま、今や何事もなかったかのようにふるまっている。

やはり今のわれわれの社会は上から下まで腐敗して堕落しきっているのかもしれない。

そもそも人間の行動や研究、作品といったものは、いずれ歴史の審判を受けるものだ。こういう、歴史を学ぶ上で一番大事なことが理解されないまま忘れさられている。歴史が評価すると意識していれば、小手先のごまかし、その場逃れの嘘、誇張はできない。 

ましてや今はインターネットの時代だ。情報はかつてないスピードで広がり、昔なら数年かかったであろうSTAP論文の検証が、SNS(11jigen)・科学者ブログ(kahoの日記; Stem Cell Blog)・論文審査内容を公開する雑誌F1000Research上におけるSTAP論文データの検証といった新しいプラットフォームのおかげで、ほんの数ヶ月でSTAP騒動に片がついてしまった。

STAP騒動の根底には、日本の医学生物学研究がもつ深刻な構造的問題がある。随分前から、論文における中核的存在であるデータそのものについての信頼性は、第一著者ら若者の肩だけにかかってきた。つまり、教授らシニアの怠慢のために、若者が職務と真実への忠実さを持って人並みならぬ努力をしなければ、論文の信頼性が保てないのだ。それなのに、大学の上層部のひとたちは、若者らの雇用環境を改悪して彼らの未来を潰しつづけてきた。一方で、旧帝大で始まった上層部の教授たちによるお手盛りの優遇策はとどまる所を知らず、理研もそれを真似しようとしたときにSTAP事件が起きたのだった。

腐敗は、随分前に、上のほうから始まった。そして今や社会を支える根っこのところまで腐敗が広がっている。STAP騒動はその結末の一つの形に過ぎない。

2.公益通報

STAP事件のように、上から下まで利益を共有するひとたちがつるんで、その場しのぎの嘘や言い訳で塗り固められてしまったとき、その問題を知ってしまった個人ができることは、内部告発という方法以外にはなかなかない。

実は、日本には公益通報者保護法という法律があり、大学・企業を含めた全ての事業者に対しては公益通報の窓口を設置することが定められており、「公益のために事業者の法令違反行為を通報した事業者内部の労働者に対する解雇等の不利益な取扱いを禁止する」とされている(厚生労働省リンク)。

私はこれをふまえて、Natureの編集部論説記事「変わるための機関」に対する反論を同雑誌に送付した。Natureの同論説記事は、日本の研究不正には奇妙な例が多いと決めつけて、アメリカ型の研究公正局を作れという指示をする、偏見に満ちた上から目線の論説であった。(もう一言いうならば、STAP論文は理研とハーバードからの論文なのだから、本件でアメリカ型の研究公正局の存在が役に立っていないのは自明なのに、である。これでは日本を狙い撃ちして信用を落とすことでNatureの責任を逃れようとしているとしかいえない)

予想通り、私のレターは紙面への掲載は断られたので、同文章を記事の下にコメントとして貼付した(「変わるべきなのは誰か?」)。ここでは、現状で政府機関を増設しても効果は期待できないということと、むしろ既存のメカニズムを最大限利用すること、特に(公益通報者保護法を念頭に)内部告発者保護の仕組みを生かして、(立場の弱い)若者が、(上層部の)シニアたちに率直に意見を言える環境をつくっていくべきだということを述べた。(ついでに言うと、「変わるべき機関」にはNatureも含まれるのをお忘れなく、というのがこの文のメッセージである)

3.ポエムと内部告発

STAP事件と内部告発と言えば、STAP論文の問題点を指摘したオホホポエムという怪文書の存在があったそうである(私自身は5月の尾崎氏(@TJO_datasci)のツイッターで初めて知った)。この文章の作者も明確な意味も不明だが、どうやら今回のSTAP事件において、問題が明るみに出る状況をつくった一つの因子であったようだ。

この通称オホホポエムは2chへの投稿で、「ポエム」と呼ばれているが、内容は詩というより、隠語に満ちたおとぎ話(fairy tale)である。実は、こうした隠語による会話、おとぎ話化したうわさ話というものは、日本の大学では決して珍しいものではない。私自身、京大にいたころは研究室の先輩にこうしたおとぎ話をよく教えてもらったものだ。もっともこれは決して健全な状態ではない。隠語に頼らなければならない状況は、上部の圧倒的な権力ゆえに息苦しくなった小社会に生きていることを意味しており、下の者たちは理不尽な現実をおとぎ話として解釈しなおすことで日々を耐え忍ばなければならないほどストレスに満ちた環境にいるということなのだから。

今回のオホホポエムは、少なくともそういう状況に慣れた人物が作者のように見える。そして、その分野の科学者でなければ書けないような細部にまで立ち入った内容である以上、ただのいたずらにしては手が込み入り過ぎているように見える。未だに真実は定かではないが、ひょっとすると、理研という組織の中からのかろうじての抵抗であったのかもしれない。

しかし、匿名でできる方法は逃避や攻撃にはなっても、息苦しい社会の雰囲気を和げることはできないし、問題の根本的な解決につなげることも難しい。

だからこそ、理研の遠藤高帆・上級研究員が顔と名前を出して、データによりSTAP論文の根源的な問題を指摘、明らかにしたこと(上記)は、大きな救いだ。日本の狭い研究者世界で、理研というトップダウンの組織で、上層部への異議をはっきり唱えることがどれだけ困難なことであるか。しかも一連の経過で、理研の上層部はその場しのぎの対応で有耶無耶にしようとしていることが明らかであったのだ。この状況で、決して立場が強いわけではない若い研究者が勇気を出して真実に仕える生き方を世の中に見せてくれたということは、一連の経過の中でおそらく最も重要な出来事であり、大きな賞賛に値する。

しかし残念なことに、遠藤氏の勇気をもった告発に対して、理研(*)は「この結果だけではSTAP細胞の存否を結論付けることはできない」として、理研内の再現実験チームの検証結果が出てから慎重に判断するといって、正面から答えることを避けた。のらりくらりと逃げるつもりかもしれないが、今や組織としての体面を気にしても滑稽なだけだ。むしろ、理研が健全な組織として再生するためには、遠藤氏のような存在をどれだけ大切にできるかにかかっていると言えよう。

注 * 理研の誰の言葉であるかは記事からは不明

yahoo個人、小野昌弘のページ、2014年6月8日記事より転載)
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2014年05月10日

STAP問題:Natureに責任はないのか

科学誌Natureは2014年4月30日に、日本の研究不正についての編集部論説(editorial)を発表した。これによると、日本は総合科学技術会議の指示を聞き、科学者にデータの管理法を教えて、米国の真似をして研究公正局を作れとのことだ。

大変不思議なのは、NatureはSTAP騒動の当事者で、こうした事態を招いた相応の責任がある(少なくとも、責任があるかどうか問われなければならない)のに、そうした可能性についての言及が全くなく、まるで他人事のようだということだ。

また、この論説は明らかにSTAP問題への反応であるにもかかわらず、「日本の研究不正にはとても奇妙な例がある(some of the more bizarre cases)」と言って(STAP問題とは別の)十年以上前の考古学での捏造事件に言及しているが、そもそも、他国の研究不正、たとえば米国や欧州にも同じくらい奇妙な例があり、これは世界的な問題ではないのか。

しかもこの論説は、日本の科学者にデータ管理法を教えろという、上から目線(patronising)で日本に御丁寧に対応を指示しているようだ。これではNatureがSTAP問題での自らの立場を傷つけないために、前もって用意した印象操作のための論説と言われても仕方あるまい。そしてNatureは日本のシステムに問題をなすりつけて自らの責任を逃れようとしているようにしか見えない。

さらに、この論説は、日本の統治機構の組織改編を強く勧めているが、こうした政府機関の増設は日本ではまず有効性がなく官僚のポストや天下り先を増やすだけに終わるであろう。つまり、これは中立な科学論説の顔を持ちながら、特定の政治的立場を後押しする論説ともいえる。

もちろん、本ブログで度々指摘しているように日本の科学界には問題が山積しており、それらへの対応は緊急の課題だ。しかしNatureという問題の当事者(利害関係者)がいまやるべきことは、STAP問題に、Nature自身が持っている問題が関わっていないかどうかの自己批判が先であり、それをしなければ日本のシステムをいかに改善するかについての建設的な批判はできないであろう。しかもNatureは、各国政府が科学研究の評価の要につかっている方法で最高峰に位置し、現在の科学評価システムを象徴しており、それがゆえに科学評価全般にわたる問題と無縁ではない
posted by 小野昌弘 at 05:24 | TrackBack(0) | 科学・研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月07日

科学研究の再生に必要なのは研究者の自立と研究者社会の近代化だ

STAP問題で露呈したように、日本の医学生物学は実はとうの昔からすっかり危機に陥っている。この危機を打開し、研究への信頼を取り戻すためにはどうしたらよいだろうか。

結論をまず言うと、日本の科学社会の近代化が必要不可欠だと思っている。

経済危機以来アカデミアの状況が危機的であること、医学生物学に普遍的な問題が山積していること自体は世界的な現象だが、諸外国に比べても日本の状況はかなり悪い。

大きな目で見れば、昔ながらの階層社会(封建社会)の弊害を放置したままで、個人の本当の自立を育むことを怠ってきたために、現代の世界レベルでの激変に対応できなくなっているように見える。もちろん、90年代以来の大学改革により導入された、欠陥だらけの制度設計を放置したまま20年もの月日を浪費したことの失策による影響は無視できない。こうした問題の歪みを学生・ポスドクら若者に皺寄せし続けて来たが、それもいよいよ限界に来ている。

STAP問題はこうした危機の只中に起きた。医学生物学研究をとりまくあらゆる所に積もり積もった矛盾が、幾つかの偶然によってたまたま理研という場所でスポットを浴びるようになったのがSTAP問題だ。これは個人の些細な問題のせいで例外的に起きた問題ではない。

STAP問題は隠されていた危機を露にし、旧来の権威(大学、研究所、Natureら有名雑誌、ノーベル賞受賞者(野依理事長)、メディアによる科学報道など)をドミノ倒しのように崩しつつある。もはや研究の信用問題が泥沼化し、どこまで影響が広がるのか予測が立たない状況だ。

そもそもSTAP論文には4人ものコレスポ=責任者がいた。ということは、相応に違う専門的技量が必要な研究だったはずだ。それにも関わらず、論文のデータにまともに責任をとれる人がいなかったということは、この4人による研究プロジェクトが、本来的な分業に基づいていなかったことを示している。各責任者が、担当する専門分野にデータ取得から論文執筆まで責任を持っていたならば、このようなことは起こらなかったはずではないか。

私はここで研究室を人を歯車のように使う組み立て工場のようにしろと言うのではない。まったく逆のこと、つまり日本の前近代的な研究文化を、個人の尊厳と専門性を大事にする近代的文化に転換すべきだと言いたい。

私はかつて、おそらく日本で最も工場的な雰囲気の漂う研究室を見たことがある。そこでは研究リーダーという工場長以外は、まさに無名の労働者たちでしかない。専門性への尊敬や人間の尊厳は全く感じられない。多くのメンバーが単純作業を分担して、多額の経費を使用して大量のデータを集めることだけが目的とされているようだ。しかも出来上がる論文は、使った技術以上には目新しさがない。

およそ楽しそうな職場ではなかった。研究のディストピアだろう。このように若者を使い捨てにしている場所で次世代を担う優秀な研究者が育つだろうか。前世紀の紡績工場のような研究室で現代の複雑な問題に対応できるのだろうか。

現代の医学生物学では問題と技術が複雑化してしまい、もはや狭い分野にのみ精通した専門家一人では手に負えるものではない。異分野の研究者が集まって共同作業で問題解決にあたるよりほかない。

さて日本の医学生物学研究は、どれだけこうした複合的問題に対応できているだろうか。学生・ポスドクら若者は自分の所属教室の教授の目だけが気になり、教授は他のムラに踏み込まないように遠慮しあう。そして合同ミーティングも、結局権利関係を確認し合うだけで終わり、建設的に批判的な議論はできない。このような環境で実質のある研究はできない。

これまで異分野にまたがる研究(学際的研究)を多数行って来た研究者として言えるのは、学際的研究を行うために必要不可欠な条件は、参加する研究者が、研究者として自立していることだ。(もちろん個人としても自立している必要がある)

研究者として自立するためには、まず分野の深い知識と理解に裏付けられた、自分の専門性に対する強い信頼(confidence)を持つ必要がある。この信頼がある人は、自然と自分の分野外の専門家のことも同様に尊敬するようになる。ただし、この信頼は丸投げを意味しない。共同研究においては参加する研究者全てが厳しい批判的な議論を納得するまで行う。この対話は自立した研究者間でないと成り立たない。そしてこの異分野間の対話こそが、学際的研究を深めて真実に近づくために最も重要な基盤だ。

これらは日本の伝統的ムラ社会が最も苦手とする事柄かもしれない。しかし、個人が尊厳を感じられない場所で優れた多角的研究・学際的研究が行われることはありえない。個人が自立していない場、専門性が尊重されない場で、現代の複雑な科学は進歩しない。体裁だけ整えてもやがてぼろがでる。

制度的な裏付けも必要だろう。論文数とインパクトファクターに偏った今の評価法ではなく、研究者が自らの専門を長期間かけて深めていくことに対する評価や、他分野・共同研究への貢献に対する評価を研究者の評価の中心に据えていく必要があろう。そしてもちろん評価をより公正なものにしていく努力が必要だ。こうした研究者評価の価値観および制度の充実こそが、研究者として信頼でき、実のある共同研究ができる専門家を育成するためには必要だろう。そして広い視野・長期的評価を重点におけば、研究不正をしてその場しのぎをするような空虚な人物を自然に淘汰・排除することができる。

真の意味での分業・共同研究の推進は、密室性の高い日本の研究室を透明化するという作用もあるだろう。多数の目があれば、捏造や研究不正の入り込む余地も減るし、セクハラ・パワハラといった人権問題も防止できよう。実際、教授を殿様とする城とも言える研究室内だけで行われるミーティングは、往々にして研究室内での公開リンチの現場になっている。

日本の研究者社会も、ほかの分野と同様、ムラ社会の結束と長時間労働にのみ過度に依存して来た。しかし日本社会で研究をするからといって、この2点にだけアイデンティティーを求めなくてよい。いや、もう求めてはいけない。時代は変わり、今や人海戦術はとりたてて日本の強みではなくなっている。それよりも若者がシニアの短期的利益のために使われて、単純作業による長時間労働を強要され、自分の能力を伸ばす機会を奪われていることの損失のほうが大きい。そしてこの構造の中で、日本の蓄積してきた知識・技術の継承に支障が出て、若い頭脳による創造性を育むことができなくなっているという2つの弊害のほうが大きすぎる。(それなのに日本では、強迫的にこの長時間労働のアイデンティティーにしがみついている研究者が多すぎるように思う)

時代の流れの中で変わることを恐れる必要は全く無い。

倫理講習をお経のように聞くことが今必要なのではない。いま日本の医学生物学研究の場で本当に必要なものは、研究社会の近代化のための意識変革と制度設計だ。

研究者たちはSTAP問題を対岸の火事にしてはいけない。この問題は理研ではなく東大や京大で起きてもおかしくなかったし、幹細胞学特有の問題ではなく、免疫学で起きても全く驚かない。そして今、日本の全ての研究機関・学会・科学者の信用が崩壊しつつあるのだという厳しい認識を持つべきだ。これは大学・研究の自治の危機といっても過言ではない。

日本の研究社会の再生のためには、個人の尊厳と自立、専門性に対する敬意の回復が不可欠だ。これらはいま日本社会が広く失っている要素かもしれない。根は深い問題だが、今これに手をつけなければ日本の医学生物学研究の再生はないと思う。

2014年5月3日 yahooニュース個人の記事より一部変更・加筆のうえ転載)
posted by 小野昌弘 at 06:02 | TrackBack(0) | 科学・研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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