2014年05月03日

STAP問題で露呈した研究体制の未熟さ(1)リスク管理の甘さ

STAP問題は、日本の研究体制の未熟さをあらわにした事件だ。これは決して「未熟な研究者」だけが引き起こした問題ではない。もちろんこの問題にある個別の事情はいくらでもあろうが、根本的には研究体制そのものの未熟さに主因があるのではないか。

未熟なのは、日本社会にある階層社会の弊害をシニアージュニア間の非対等な雇用関係に持ち込んでいることを恥ともしない教授たちであり、本来的な分業を軽視している体制であり、教育機関であるのに学生を安い労働者として酷使することしか考えていない大学であり、大学・省庁の時代遅れの硬直化した研究評価システム・科学政策だ。

STAP論文には4人も論文の責任者(コレスポンディング・オーサー)がいた。それなのに発表直後に不備・不適切なデータが次々と見つかったことは、これらの論文を作成・発表する過程でリスク管理がまるでなっていなかったことを示している。だからこそこの問題はジュニア(若手)の研究者だけの問題ではない。

医学生物学の論文の中心はデータだ。論文を書くことで、われわれ研究者はデータそのものを発表し、データに基づいた仮説を発表している。それ以上でも、それ以下でもない。それなのにこの事実はまるですっかり忘れ去られているかのようだ。一方で、科学の本体が、つきつめるところ我々の科学的思考そのものの中にあることは、医学生物学とて他の学問分野と同じである。ところが、この科学的思考の本質を、レトリックに満ちた論文やグラント申請書を書く作業と取り違えているシニアの教授たちの何と多いことか!

生物現象が複雑きわまりなく多種多様であるからこそ、データの裏打ちのない仮説は無意味であり、それが生物学の大きな特徴だ。しかも21世紀というデータの世紀における医学生物学では、爆発的に増加・複雑化しているデータをどのように取得し、解析、理解するかということが大きな主題になってきている。

生物学がこのように大きく変化しているというのに、日本では実験データの取得・解析を、筆頭著者になる一人の若い研究者に集中的に担わせることが常態化している。これは若手からみると過剰な押しつけであり、非人間的な生活を送らざるを得なくなっている元凶だ。そして、この同じ問題をシニア側の問題としてみると、リスク管理の甘さになる。一人の研究者の問題で、チーム全体の研究結果が全て崩壊するなど本来あってはいけない事態で、このような体制を敷いていること自体が問題だ。しかし、日本の医学生物学研究のほとんどが、このような脆弱な体制で行われている。

だから私は、このSTAP問題は、理研に特有の問題ではなく、日本のどこで起きても不思議はない問題だったと考えている。

ではどうしたらいいのか。私は鍵になるのは、本来的な意味での分業の推進と研究室・研究プロセスの透明化を可能にするための制度的な裏付けをつくること、特に科学者の評価システム・キャリアパスを再検討する必要性がある。これらについてはまた別の稿で詳しく述べたい。

2014年4月28日 yahooニュース個人、小野昌弘の記事より一部変更、転載)
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2014年04月20日

STAP問題で明らかになった科学評価システムの制度疲労 (上)勝者が勝ち続ける理由

(上)勝者が勝ち続ける理由
Natureは、各国政府が科学研究の評価の要につかっている方法で最高峰に位置し、現在の科学評価システムを象徴している。Cell, Scienceという雑誌もあるが、最近この3誌は、医学生物学の分野においては非常に似てきている。

3誌の編集方針に共通するのは、科学界に対する広いインパクトがある論文を掲載する方針だ。幅広い読者を対象にするので妥当な方針だと思う。つまり、科学的にいかに質が高くても、インパクトがなければ載せない。そして、このインパクト重視の姿勢が、Natureはタブロイド誌だと言われるゆえんだ。

このことは皆分かっているのだが、最近、予算が各国で削減傾向にあるので、科学者の競争が激化。特に日米では、Natureなどの有名雑誌に論文を出版していないと、ジュニアならば定職につくのがいよいよ難しくなっているし、シニアならば大きな研究グラントを持続して獲得することが難しくなっている。だから、医学生物学領域での研究者であれば、喉から手が出るほどこれらの雑誌に論文を載せたい。

インパクトとは何か。簡単にいうと、時代のトレンドに乗っているもの(多くの人が研究している分野であること)か、人々を驚かせるもののどちらかであることだ。STAP論文は、この二つの要素を兼ね備えていた魅力的な論文であった。それがゆえに、Natureも積極的にこの二つの論文をプロモーションした。

つまりNatureに論文を載せるためには、流行の分野を研究する必要がある。あるいは古くからある問題を解決した、という触れ込みも、人々を驚かせるがゆえに好まれる。かつて京大生化学講座の先々代の沼教授は学生たちに100年前の文献から読んで論文を書くように指導したと伝え聞く。その当時から同様の雰囲気はあったのだろう。しかし流行の分野で競争に勝つのは容易ではない。また、いつも人の目を驚かせるような研究結果が出せるも限らない。それでも日米の有名教授たちは定期的にNatureを出版できる。なぜか。

一般的にいって、Natureに論文を出すために必要なのは、分野で著明な研究者となることだろう(にわとりと卵のような話だが)。有名な研究者からの論文は明らかに雑誌の編集者による審査を通りやすい。また論文の査読は同業者(一種のインナーサークル)のみでなされることが多く、結局は分野の権益を拡大するために甘い審査になるという傾向もあるようだ。

もうひとつNatureに論文を出すために大事なのは、言ってしまうと身もふたもないが、沢山お金を使ったという証拠だ。論文で最先端の技術(これは大抵高額だ)を使うと座布団が何枚かもらえて査読で有利になる(しかも査読する研究者は往々にして最先端技術によるデータを読めないので、これも有利にはたらく)。

このような研究をできる場所は世界でも限られてくる。先進国の先端的研究センター、大研究室でない限り、それだけ大規模な研究予算はないわけだし、先端技術にアクセスもできない。また人手の数は予算に比例するので、特に人権が守られている欧州の多くの国では無理がきかない。一方、日米は大学院生やポスドクを安価な労働力として奴隷的に酷使することで手持ちの予算・技術以上の競争力を保って来た。(これも持続可能なことではないのは自明だが)

この状況だから必然的に、限られた数の大研究室に科学研究費と労働力を集約するという傾向が全世界で見られている。そして日米で顕著なように、若者が酷使され使い捨てられる状況は見て見ないふりをするようになっている。

こう書くと、Natureという雑誌が、科学界での序列を維持する仕組みの要の位置にあることがうっすらと分かってこよう。フランスの哲学者のブルデューは学歴を利用した社会階層の再生産について語ったが、科学界にも階層の再生産を支える仕組み、つまり既に権力を持っている科学者たちが勝ち続けるための仕組みが存在する。実際、勝ち続ければ大きな予算が手に入り、大きな権力と研究者として上位の生活を維持できる。この仕組みを支えている大きな柱のひとつがNatureの権威だろう。

果たして科学研究予算は、公正かつ効率的に分配され使用されているのだろうか?一部の研究者グループに過剰に予算が集中して無為に浪費されていはしないだろうか?

Natureという権威が、科学研究のあり方を形作る一つの要因になっている。そして、その権威は科学の発展にとって望ましくない方向に暴走してきた。これはNature側にではなく、Natureをありがたがる各国の科学者たち、政府の科学政策担当者たちの怠慢に問題がある。
posted by 小野昌弘 at 23:45 | TrackBack(0) | 科学・研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月08日

科学ニュースという大本営発表

STAP論文では、その発表時からマスコミの反応は異常だったが、論文に疑義が生じてからは、その反動で過剰なバッシングになっている。割烹着やピンクの部屋といった宣伝材料を用意したという理研もどうかと思うが、そもそもそういう科学の本質と無縁な宣伝に乗るマスコミ・視聴者もどうかしている。しかし、これも考えてみると起こるべくして起きた事態だ。

この事態をみて、昔京大で働いていた頃、自分が発表した論文について記者会見したときの様子を思い出した。有名雑誌に掲載が決まった論文は、発表と同時に新聞記事が出る。どうしてそんなことになるか訝る人も多いだろうが、実はこれには決まった方法がある。

有名雑誌に論文掲載が決まると、研究者は大学本部および、自分たちに研究費を支給している省庁関連の助成機関に連絡する。すると、その省庁関連機関が、論文掲載日に合わせて、文科省などに設置されているマスコミ連絡用の「ポスト(郵便受け)」に、新聞記事にするための情報(論文の概要)を投稿する。このマスコミ用原稿の下書きは研究者側が用意して、研究費助成機関の担当者がマスコミ向けに分かりやすいように仕立て直す。

さて、その掲載雑誌が超有名雑誌だと、そのポストの投稿をみた新聞社から大学に連絡が入り、記者会見が行われる。実は京大の中にさえ「記者クラブ」があり、科学記事担当の記者が常駐している。だから京大の研究者は本部にある記者クラブに行って話をすればいいだけなので、便利なのは確かだ。(ただ、どうして京大がわざわざ大きな一部屋を私企業の社員たちに提供しているのか、大きな違和感を感じたが。)

その記者会見をしてよく分かったが、残念ながら、日本の新聞では科学評論能力がある記者は大変少ない。7、8社の新聞社の記者たちから取材されたが、まともに話が通じた記者は、朝日の某科学ジャーナリスト一人だけだった。その朝日の記者は物理学の研究者をしていた方で、生物学についてもよく勉強しているようで、理解は早かった。しかしほかの記者は全て、基礎的な生物学の知識すらおぼつかなく、ましてや先端研究の機微については全く理解していなかった。

科学ニュースの取材現場はこんなものだ。簡単にいえば、文科省発表の受け売りばかりだ。だから当然、研究機関による発表の受け売りになる。いかに凄い発見をしたかだけが書いてあって実質のない記事ばかりになるわけだ。(尤もこれは科学に限ったことではないですね。最近ニュースになった冤罪事件などでも、検察や警察の発表を批判なしに垂れ流すことが冤罪につながったのだから)

だから昔から私は自分の中では、科学ニュースのことを「大本営発表」と呼んでいた。どの記事を見ても、世界的発見が書いてあり、医学生物学の分野の発見なら、翌年にでも病院での治療に応用できそうな勢いだ。日本の研究は凄いのだ、世界の競争に競り勝ち、Natureら有名雑誌に載って、世界に先んじて治療に応用できるのだ、と。まるで2、3年で全ての病気が簡単に治癒できるようになりそうな話ばかりだ。しかし、現実には、こうした科学ニュースになっている発見のうち、本当に治療に応用できるところまでいくのはごくごく一部だ。

それにしても、どうしてこんな大本営発表をしなければならないのだろうか。科学者にとっては、新聞にとりあげてもらうことで地位・研究費の獲得で優位になるためであり、研究機関(大学)にとっては、省庁からの予算を引き上げるための材料であり、文科省・政府にとっては、国民から絞り上げている税金が日本の進歩・利益のために効率よく使われているという宣伝だ。このどれもが科学的真実とは無縁で、だから大本営発表なのだ。

そもそも、先端科学の1論文で分かることなどある現象の小さな1側面にすぎない。しかも、その発見がどれくらい妥当なことかは、何年も、ときには何十年もかけて検証されていくものなのだ。STAP細胞の発表直後にツイートしたが、Natureに載った1論文のことごときで大臣が声明を出すということ自体が、日本の科学に対する理解度、科学政策の未熟さを反映している。

それにしても、政府・マスコミの共同作業で作った「大本営発表」の仕組みのために、マスコミどころか大臣までその大本営発表に翻弄されて、科学政策が迷走するとは何とも皮肉なことではないか。

本日、東大の松岡氏と京大の中辻氏が、科学の分野で若者たちの置かれた現状について、二次大戦の悲劇と重ねたツイートをしていた。まさに、大本営発表の裏では、その成果発表のために酷使され、研究費・研究体制の不備を深夜までの労働で補い、定職につくための一抹の望みを上部に悪用されて使い捨てられていく若者たち、医学生物学ならピペド(ピペット奴隷)、がいる。

科学ニュースという大本営発表のために人生を削られている若者たちがいる。STAP問題を機に、科学報道のありかたを考え直すべきだ。これに関連してマスコミ各社にぜひお願いしたいのは、科学記事の質の向上のために、経験のある研究者(ポスドク)を積極的に雇用することを考慮してほしい。彼らは日本の埋もれた財産のひとつだ。
posted by 小野昌弘 at 15:33 | TrackBack(0) | 科学・研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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