2014年05月04日

日本の研究社会の前近代性について

STAP問題は現在の医学生物学研究に広く見られる問題と関連している。医学生物学の研究室が共通して抱える問題を知らなければ、STAP論文における個別的問題も見えてこない。

ここでまず認識すべきなのは、今や医学生物学の研究室は工場であるという現実だ。工場長(教授、グループリーダー、上席研究員など)が労働者(学生・ポスドク・テクニシャン)を使って論文を生産する。生産手段(研究費、実験室、研究機器)は工場長のみが権利を持っているため、生産されたものは工場長の持ち物だということになる。そして、論文という生産品を売る(=論文をよい雑誌に掲載する)ことで資本を回収し(競争的研究費を獲得し)研究活動を継続する。

工場という形容が嫌ならば、映画製作所だと言っても良いだろう。重要なのは、トップに大きな権限が集中していることだ。実験技術・機器が高度化し、世界的に競争が激化しているため、Natureなどの有名雑誌に論文を載せるためには、相当な額の研究費が必要になってしまっている。この流れは、加速することはあっても、元に戻ることはないだろう。

この構造が、日本の場合には、社会に広くみられるヒエラルキー(階層社会、上下関係)と密接にからまり合って、問題をこじらせている。

ところで論文という生産品の権利関係を研究の世界で公式に示すのが、論文の著者名の順番になる。トップは、論文の著者名で最後の位置を占めること(ラスト・オーサー)および連絡著者(コレスポンディング・オーサー;コレスポ)になることで論文に対する権利を示す。基本的に、コレスポであるということは、工場長として論文の生産過程・品質全体に責任を持つということである。

ちなみに2本のSTAP論文ではコレスポ=責任者が4人いた。これは責任者が沢山いたという意味だ。しかし実際にデータを取得していたのが筆頭著者の一人だけなら、まさに船頭多くして舟沈むという事態だったのかもしれない。この点についてはまた別の稿で詳しく述べたい。

繰り返すと、医学生物学の研究室とはトップに大きな権限が集中している工場のようなものである。そして日本の医学生物学研究という工場は、良くも悪くも家内制手工業の段階にある。研究プロジェクトは、基本的には一人の第一著者(ファースト・オーサー、またの名をピペド=ピペット奴隷)が実験して、コレスポ=工場長=教授が監督している。(論文にみられるそれ以外の著者の役割は「手伝い」と読んだら良い)

学生、ポスドクら若者の側からみると、よい論文を生産することで労働者として使いがいがあることを示す強い必要性がある。これを公式に示すのが、論文の著者名で第一著者(ファースト・オーサー)になることだ。

今やほとんど全ての若者の職は有期雇用だ。しかも大学院重点化の弊害で、次々山のように新しい博士が生まれるのだから、競争は激しい。これを勝ち抜いて次の職を得るうえで有利になるためには、第一著者の論文をなるべくたくさん、しかも有名雑誌に出版するしかない。これは並大抵の努力ではできない。有能な学生・ポスドクが生活を全て研究に捧げたとしても、運がよくなければ生き残れない世界だ。だから若者も必死で第一著者になろうとする。他の同僚と気軽に成果を分け合うことはできない。研究室の同僚は競争相手だ。

ちなみに第一著者が未熟すぎて使い物にならないときには、工場長が直接指導するのは面倒なので(実際、最新機器を使った実験を指導する能力がないので)ポスドクあるいは助教が日々の監督者として使われる。こうして中間管理職になった若手研究者たちは、自分の職の安定すらままならないのに、研究者として一番脂がのっている時期に、本来自分の研究に打ち込むべき貴重な時間を学生の世話に捧げざるをえなくなる。こうなると自分の研究が片手間になる。こうして最も柔軟な頭と体力を持った世代を無駄に食いつぶすことは社会的に大きな損失であるし、当事者にとっては恐ろしく大きなストレスになる。

私自身、日本で助教をやっていたとき、日中は学生らの面倒で時間が潰れてしまうので、自分の研究を始められたのは夕方5時も過ぎてからだ。それから真夜中まで働いても十分な仕事はできるものではない。これでは研究者として将来への希望はしぼむ一方だ。統計は見たことがないが、医学系研究室では、こうした中間管理職の立場の助教らに自殺者が多いように思う。深刻な問題だ。

いま医学生物学の研究室で、若者たちは実に前近代的な雇用環境下にある。本来的には学生は労働者ではないし、ポスドクは通常大学・研究所から雇用されている。少なくとも誰も、工場長である教授たちから雇用されている者はいない。しかし、実質的に採用・雇用の延長(学生ならば卒業後のポスト、ポスドク/助教なら有期雇用なので通常1年単位での更新)といった人事権は全て教授に集中している。教授はまるで自分の私物のように学生・ポスドクらを扱い、圧倒的に強い権力を楽しむ。

そもそも研究の場所、道具、試薬等全てに教授が権利を持っているので、研究室自体が教授がお殿様の城のようになっている。

第一著者になることをめぐって競争し合うピペド学生・ポスドクたち。まだピペドの立場でありながらピペド使いとなった助教・ポスドクたち。彼らの利害は常に対立し、感情的に衝突することが日常的になっていく。

こうした状況は教授からみて好ましいようで、研究室のメンバー同士の対立・衝突が積極的に教授により煽られることも珍しくない。工場長からみて労働者は分断されていたほうが扱いやすいのだ。分断され団結していない労働者ならば、工場長との力関係の差は無限大だ。さらにこの構造は、日本の研究室の密室性とあいまって、パワハラ・セクハラの温床ともなっている。そしてこの問題は若者の雇用が不安定化することで急速に悪化した。

こう書いていると、私が大学院生のころ教授に言われた言葉を思い出す。「あなたたち(学生・ポスドク)は高い試薬・機械を使っているのだから、そもそも借金があるようなものだ。その分働いてもらわないと困る」という言葉だ。私はこれを聞いた瞬間に、学生のころ読んだ、ある本を思い出し、非常に感慨深かった。

その本とは、マルクスの「資本論」だ。

おそらく、現代日本のピペドたちは「資本論」を読むべきなのだろう。この教授の言った、「研究活動に必要なコストの分まで多く働くべき」という考え方は「資本論」の中で詳細に描かれている。19世紀末、産業革命後にはじめて機械が導入された当時の欧州の工場で、工場長たちがはまさにこの論理=労働者は自分が使用する機械のコストの分まで多く働くべき=で、労働者たちを不当に低い給料で長時間働かさせて大きな利潤を生み出していたのだ。

私は大学の研究室に入ったつもりだったが、どうやら19世紀末の欧州の工場で酷使されていたプロレタリアートをリアル体験していたようだ。

そろそろ、日本の医学生物学研究の大学院生・若手研究者たちがどのような立場にあるか、どういう環境で研究という労働をしているかが見えてくるだろうか。

もはや日本の医学生物学研究の場には、かつての学問の場であるアカデミアがもっていた尊厳はまるでない。それどころか人間的な労働環境は無く、将来への希望も無い。もちろん比較的状況がよい研究室もあろう。しかし標準例・成功例がこうした悲惨な状況になっていることはもっと認識されるべきだ。

これは決して正常な事態ではない。システムの欠陥を現場に皺寄せし続けた結果だ。しかし末端の若者を酷使して帳尻を合わせるのももう限界なのではないか。

研究成果は雇用と直結している。雇用をめぐる歪みがセクハラ・アカハラ・パワハラの横行する大学・アカデミアという何とも情けない状況に至り、労働環境の悪化の原因になっている。これらの問題を無視して「研究の倫理」なるものを唱えても空々しい。雇用問題・労働問題は最も大事な課題で、避けて通れないはずなのに、大学院重点化以来のあらゆる改革という改革で、この最重要のものがおざなりになってきたのだ。

研究とは本来、夢と精神の自由があり、頭脳と技術の研鑽を楽しめる世界のはずだ。研究の場に人間的な環境を取り戻し、研究体制を近代化して効率のより良い、しかも頑強な体制に変えて、日本の医学生物学研究を正常化させることはまだ可能だと思う。次回はこれについて私見を書きたい。

2014年4月30日 yahooニュース個人の記事より一部変更、転載)
posted by 小野昌弘 at 20:31 | TrackBack(0) | 科学・研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月03日

STAP問題で露呈した研究体制の未熟さ(1)リスク管理の甘さ

STAP問題は、日本の研究体制の未熟さをあらわにした事件だ。これは決して「未熟な研究者」だけが引き起こした問題ではない。もちろんこの問題にある個別の事情はいくらでもあろうが、根本的には研究体制そのものの未熟さに主因があるのではないか。

未熟なのは、日本社会にある階層社会の弊害をシニアージュニア間の非対等な雇用関係に持ち込んでいることを恥ともしない教授たちであり、本来的な分業を軽視している体制であり、教育機関であるのに学生を安い労働者として酷使することしか考えていない大学であり、大学・省庁の時代遅れの硬直化した研究評価システム・科学政策だ。

STAP論文には4人も論文の責任者(コレスポンディング・オーサー)がいた。それなのに発表直後に不備・不適切なデータが次々と見つかったことは、これらの論文を作成・発表する過程でリスク管理がまるでなっていなかったことを示している。だからこそこの問題はジュニア(若手)の研究者だけの問題ではない。

医学生物学の論文の中心はデータだ。論文を書くことで、われわれ研究者はデータそのものを発表し、データに基づいた仮説を発表している。それ以上でも、それ以下でもない。それなのにこの事実はまるですっかり忘れ去られているかのようだ。一方で、科学の本体が、つきつめるところ我々の科学的思考そのものの中にあることは、医学生物学とて他の学問分野と同じである。ところが、この科学的思考の本質を、レトリックに満ちた論文やグラント申請書を書く作業と取り違えているシニアの教授たちの何と多いことか!

生物現象が複雑きわまりなく多種多様であるからこそ、データの裏打ちのない仮説は無意味であり、それが生物学の大きな特徴だ。しかも21世紀というデータの世紀における医学生物学では、爆発的に増加・複雑化しているデータをどのように取得し、解析、理解するかということが大きな主題になってきている。

生物学がこのように大きく変化しているというのに、日本では実験データの取得・解析を、筆頭著者になる一人の若い研究者に集中的に担わせることが常態化している。これは若手からみると過剰な押しつけであり、非人間的な生活を送らざるを得なくなっている元凶だ。そして、この同じ問題をシニア側の問題としてみると、リスク管理の甘さになる。一人の研究者の問題で、チーム全体の研究結果が全て崩壊するなど本来あってはいけない事態で、このような体制を敷いていること自体が問題だ。しかし、日本の医学生物学研究のほとんどが、このような脆弱な体制で行われている。

だから私は、このSTAP問題は、理研に特有の問題ではなく、日本のどこで起きても不思議はない問題だったと考えている。

ではどうしたらいいのか。私は鍵になるのは、本来的な意味での分業の推進と研究室・研究プロセスの透明化を可能にするための制度的な裏付けをつくること、特に科学者の評価システム・キャリアパスを再検討する必要性がある。これらについてはまた別の稿で詳しく述べたい。

2014年4月28日 yahooニュース個人、小野昌弘の記事より一部変更、転載)
posted by 小野昌弘 at 09:04 | TrackBack(0) | 科学・研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月20日

STAP問題で明らかになった科学評価システムの制度疲労 (上)勝者が勝ち続ける理由

(上)勝者が勝ち続ける理由
Natureは、各国政府が科学研究の評価の要につかっている方法で最高峰に位置し、現在の科学評価システムを象徴している。Cell, Scienceという雑誌もあるが、最近この3誌は、医学生物学の分野においては非常に似てきている。

3誌の編集方針に共通するのは、科学界に対する広いインパクトがある論文を掲載する方針だ。幅広い読者を対象にするので妥当な方針だと思う。つまり、科学的にいかに質が高くても、インパクトがなければ載せない。そして、このインパクト重視の姿勢が、Natureはタブロイド誌だと言われるゆえんだ。

このことは皆分かっているのだが、最近、予算が各国で削減傾向にあるので、科学者の競争が激化。特に日米では、Natureなどの有名雑誌に論文を出版していないと、ジュニアならば定職につくのがいよいよ難しくなっているし、シニアならば大きな研究グラントを持続して獲得することが難しくなっている。だから、医学生物学領域での研究者であれば、喉から手が出るほどこれらの雑誌に論文を載せたい。

インパクトとは何か。簡単にいうと、時代のトレンドに乗っているもの(多くの人が研究している分野であること)か、人々を驚かせるもののどちらかであることだ。STAP論文は、この二つの要素を兼ね備えていた魅力的な論文であった。それがゆえに、Natureも積極的にこの二つの論文をプロモーションした。

つまりNatureに論文を載せるためには、流行の分野を研究する必要がある。あるいは古くからある問題を解決した、という触れ込みも、人々を驚かせるがゆえに好まれる。かつて京大生化学講座の先々代の沼教授は学生たちに100年前の文献から読んで論文を書くように指導したと伝え聞く。その当時から同様の雰囲気はあったのだろう。しかし流行の分野で競争に勝つのは容易ではない。また、いつも人の目を驚かせるような研究結果が出せるも限らない。それでも日米の有名教授たちは定期的にNatureを出版できる。なぜか。

一般的にいって、Natureに論文を出すために必要なのは、分野で著明な研究者となることだろう(にわとりと卵のような話だが)。有名な研究者からの論文は明らかに雑誌の編集者による審査を通りやすい。また論文の査読は同業者(一種のインナーサークル)のみでなされることが多く、結局は分野の権益を拡大するために甘い審査になるという傾向もあるようだ。

もうひとつNatureに論文を出すために大事なのは、言ってしまうと身もふたもないが、沢山お金を使ったという証拠だ。論文で最先端の技術(これは大抵高額だ)を使うと座布団が何枚かもらえて査読で有利になる(しかも査読する研究者は往々にして最先端技術によるデータを読めないので、これも有利にはたらく)。

このような研究をできる場所は世界でも限られてくる。先進国の先端的研究センター、大研究室でない限り、それだけ大規模な研究予算はないわけだし、先端技術にアクセスもできない。また人手の数は予算に比例するので、特に人権が守られている欧州の多くの国では無理がきかない。一方、日米は大学院生やポスドクを安価な労働力として奴隷的に酷使することで手持ちの予算・技術以上の競争力を保って来た。(これも持続可能なことではないのは自明だが)

この状況だから必然的に、限られた数の大研究室に科学研究費と労働力を集約するという傾向が全世界で見られている。そして日米で顕著なように、若者が酷使され使い捨てられる状況は見て見ないふりをするようになっている。

こう書くと、Natureという雑誌が、科学界での序列を維持する仕組みの要の位置にあることがうっすらと分かってこよう。フランスの哲学者のブルデューは学歴を利用した社会階層の再生産について語ったが、科学界にも階層の再生産を支える仕組み、つまり既に権力を持っている科学者たちが勝ち続けるための仕組みが存在する。実際、勝ち続ければ大きな予算が手に入り、大きな権力と研究者として上位の生活を維持できる。この仕組みを支えている大きな柱のひとつがNatureの権威だろう。

果たして科学研究予算は、公正かつ効率的に分配され使用されているのだろうか?一部の研究者グループに過剰に予算が集中して無為に浪費されていはしないだろうか?

Natureという権威が、科学研究のあり方を形作る一つの要因になっている。そして、その権威は科学の発展にとって望ましくない方向に暴走してきた。これはNature側にではなく、Natureをありがたがる各国の科学者たち、政府の科学政策担当者たちの怠慢に問題がある。
posted by 小野昌弘 at 23:45 | TrackBack(0) | 科学・研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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