2014年12月13日

投票という、大人になるための階段

選挙とは、社会での自分自身の立ち位置に一番近い候補者を選ぶという、実に単純で明快な作業と思う。たとえれば巻尺で距離を測って一番自分に近い人を選ぶようなもの。そうして自分の立場を代表してくれる人が議会に行けば、自分自身が結局得をするのだから。「入れる人がいない」はありえないはずだ。

いや、それでも誰に入れても同じだ、という人もいるかもしれない。本当にそうだろうか。それは違いを知らないから、知ろうとしていないからではないか。選挙の結果にしたがって社会がどう変わっているかを見ようとしたことがないからではないか。

選挙で、好き嫌いじゃなく、社会での自分自身の立ち位置に一番近い候補者を選ぶためには、何より自分を理解しなきゃいけない。社会における自分の立場というのは、たいていの場合、虚栄心を満足させるような素晴らしいものではないだろうし、単調で面白みのない毎日しかそこにないならば、芸能人・強い政治家・スポーツ選手などに同一化して、「彼ら・彼女らの一部である自分」を生きたくなることもあろう。これで一時的に自分を騙せても、現実は揺らがない。社会の中で「どこかの場所」にいる自分という事実は、まがいもない真実で動かしようがない。

自分自身のために投票するには、テレビや新聞が何と言おうと、それに関係なく自分自身の意見をきっちり持つ必要がある。テレビの画面に映っている有名人に自分を同一化しているようではダメなのだ。だいたい、有名人というのは大抵の人より相当多くのお金を持っていて、庶民の生活のことなど分かっていない可能性のほうが高いのだから。

ここでありがちな落とし穴は、「マスコミは嘘ばかりだがネットの裏の世界にはどこかに真実の情報がしまってある場所があって、そこに行けば正しいことがみんな分かる」という幻想だ。残念ながら、そんな都合のいい場所は存在しない。そんなことを謳っている場所があったとしたら、それは真実に対する真摯さが無いということなのだから、宗教かあるいは悪質な勧誘かもしれない。なにせ、現実というものは、世界の英知が集まっても分かりきれないくらい、途方もないものなのだ。

こうして実際に自分の頭で考え出してみる。ここで大人になると分かる(分からなければならない)大事なことにぶつかる。それは「自分にとっての答え」は誰も教えてくれないということだ。テレビを見ても、新聞を読んでも、本を漁っても、ネットを隅々まで見ても、どこにもその答えは書いていない。でもそうして必死で考え始めると、自分は社会の中でどういう立場にいるのか、自分はそのままだとどういう未来を持つようになるのか、社会全体はどのように変わっていくのか、その変化にどうやって政治が関わっているのかが、ぼんやりと見えてくる。

そのとき、テレビの画面の中で、明快な口調で分かりやすい言葉を吐くひとの中に、ペテン師の顔が隠れていたのが見えてくるかもしれない。少し重い口で歯切れ悪く語るひとが、実はものすごく大事なことを、できるかぎり正直に語っていることに気がつくかもしれない。そのうち、自分で調べ始めるようになろう。答えではなく、具体的な事実を。

そして政治家というのが、実は国民の代表のことで、代表が集まって何をしているのか、何が政治家の仕事なのか、少しずつ分かってくる。そして、どの人も完璧ではないけれども、往々にしてその人たちなりに努力していることも分かってくるだろう。そして、どの人の努力の方向が、自分にとって納得できる方向かどうか、考え出すことになる。

そうしてあるとき、選挙の日が来る。候補者を見て考える。どの候補者が、自分の立場を代表してくれるのだろう。自分と、自分の周りの親しい人・愛する人・世話になっている人・世話している人、そういう自分たちに一番近い立場のひとを代表にして、国会に送り込まなければならない。そうすれば、自分たちが少しでも楽に世の中を生きていけるように、少しずつでも世の中をましな方向に変えていけるかもしれない。

逆に、この機会を無駄にして、「誰になっても同じだ」などとうそぶいていると、いつのまにか、自分たちからむしり取る人・自分たちを騙す人・踏みつける人・自分たちが倒れても手を差し伸ばしてくれない人たちの代表が国会に行って、勝手な法案を作るようになる。そうすると、法的に自分たちがますます生きにくくなるような世の中に変わっていってしまう。

だから、選挙というのは必死でやるものだ。仕事を真剣にやるときのように、社会での自分自身の立ち位置に一番近い候補者を真剣に選ばなければならない。自分の生活がかかった測量作業といっていい。選挙というのは、こうして自分の頭と経験をフル回転させて答えを出さなければならない、面白い機会なのだ。自分の知力と感性が試されているといってもいい。

大事な点だが、投票するときは皆一人になる。そして誰からも見られない小さな机の上で、頭を振り絞って出した自分だけの答えを、一票の中に書き入れる。この瞬間は完全に自由だ。ここで書く名前が、会社の上司に頼まれた名前でなくてもいい。なにせ、投票は完全に秘密なのだから。会社では、上司の言ったとおりにしました、と言って笑顔を浮かべて、自分の書きたい人の名前を書いても、法的にも、道義上も、全く正しいことなのだから。逆にこうして真摯に考えて、そのうえでもし自分の書きたくない人の名前を書いてしまったとしたら、それは自分自身への冒涜だ。

つまり、投票とは大人になるための階段といってよかろう。といっても、これは成人式のことではない。年をとっているからといって大人とは限らない。日本で往々にして勘違いされていることだが、大人になるとは、世の中を分かったふりをして批判精神を捨てて奴隷の境遇を楽しめるように落ちぶれることではない。大人になることは、たった一人で自分の足で地面に立ち自分の考えで前に進むことを決意すること、といってもいい。つまり、ひとは大人として生きられているか、人生を通じて常に試されているといってもよい。

そんなことを言っても、投票で一人ができるのはたった一票だけじゃないか、それで社会が変わるわけがない、と言われるかもしれない。確かに自分が投票した人が当選するかもしれないし、しないかもしれない。でもその結果に関わらず、必死で考えた自分は、少し前に進んでいる。だから選挙の結果をみたときに、選挙を経た後の国会の様子をみたときに、何がどういうわけで変化していくのか、前よりもよくわかるようになっている。そうして自分に出来ることは何なのか、また考え出すことになるだろう。

一人なら一票だけかもしれない。でも多くのひとがこうして自分で考えて投票することを始めたら、世の中は間違いなく大きく変わる。一部の既得権益を持っている人の代表ではなくて、多くの人を代表する人が国会に行けば、多くの人のための政治をしてくれるのだから。選挙というのは、まさにそのためにある。

皆が大人になれば政治は変わる。政治が変われば生活が変わる。選挙に、行こう。

(ヤフーニュース個人、筆者のページ、12月12日記事より転載)
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2014年10月01日

人種差別主義(レイシズム)という情念と文明からの退行

近代的精神と人種差別(レイシズム)からの脱却
人間も他の動物と同様、自らと異なるものを排除しようとする傾向があるが、これは動物的で未熟な部分である。そして、人種差別主義者(レイシスト)とはそういう動物的な行動で群れて少数派を威嚇する集団で、軽蔑されるべき社会の恥部だ。こういう未開者の暴力を公共の場所から排除することは、社会の公正と文明の程度を保つために必須のことである。

個人の成長という観点からすれば、人間は誰しも未熟な状態では人種差別に陥る可能性がある。人格(あるいは内面、魂、心性、精神、といった別の言葉で表現してもよい)よりも外観を優先する思考パターンはすべからく人種差別に繋がる。人間性の中核には人格があり、それは人格がまとっている衣にすぎない肉体とは無関係のものであるという信念こそが人種差別主義と無縁な近代的精神だ。そうした近代的精神の獲得のためには、個人が成長していく過程で、自分が人種差別主義から逃れているという思い込みを捨てて、常に意識的に自分自身の思考と行動を自分で批判しつづけなければならない。あるいは、他者に対する思いやりを深く持って、すがたかたちを超えたところに人の本質を見いださなければならない。

これは誰でも努力すれば可能なことである一方、努力しなければ得られないものでもある。そして皆がこうした見解を共有し、問題意識を持ち、自己の成長に努力するようになることで、幅広い背景を持つ人たちが参加した公正な社会が作れる。そして社会のリーダーとなる人たちには、とりわけ強くこうした近代的精神、あるいは人々に広く公平に接する度量を持つことが要求される。

ところが、こともあろうに今の安倍政権中枢には、在特会と癒着した山谷国家公安委員長、ネオナチと関係した高市総務相といった人脈から人種差別主義者が入り込んでいる。これはつまり、日本の中枢の文明度が低下していることを意味する。そして在特会の下品な横暴の数々を見れば、政権とともに日本社会が今急速に劣化していることも分かる。

弱者への暴力
「無抵抗の老人を殴り蹴る在特会」というYouTube動画が話題になっている。動画によれば2012年6/3に新宿で起こった事件だ。在特会の演説中に、「うるさいよ」とひとこと言っただけの老人に対して、それより数倍も若い連中が襲いかかった。動画のテロップによれば「桜井会長」という在特会会長が中心人物とされる。周りの警官は眺めているだけで、暴行の現行犯であるにもかかわらず逮捕しようという様子はない。

これだけではない。日本の人種差別主義はいつのまにか白昼堂々と大手を振って歩くようになってしまった。堀茂樹氏(@hori_shigeki)は人種差別主義者の街頭行動の動画を紹介して言う「子供でなく大人なら、同じ人間として、同じ日本人として、このヘイトスピーチを聞く必要がある。わが国では、こんな卑怯者が白昼まかり通り、警官に即時逮捕されないでいるのだ。」見るに耐えかねる動画であるが、これは間違いなく今の日本の現実の一部である。

こうした在特会・人種差別主義者の横暴で日本の世相はすっかり醜くなってしまった。多くの日本人はおそらく、こうした極右のことは相手にすることもないと高をくくっているうちに、事態は悪化を続け、ついに政権内へも人脈を伸ばし、人種差別主義者の勢力はますます勢いづいているようである。

汚れてしまった国の品位と誇りを取り戻すためには、やはり政権中枢から真っ当ではない人脈を排除するように強く求める必要があると思う。安倍政権を支持する人も多くは日本の品位を貶めるここまでの異常な事態を望んではいないだろう。

政権の闇
エコノミストが最近日本のヘイトスピーチ(差別暴言)についての記事を掲載した。
在特会の醜い人種差別・暴力を詳説し、さらに安倍内閣への拭いがたい疑念を隠さない。国家公安委員長・拉致担当大臣の山谷えり子氏と在特会元幹部の関係、歴史修正主義者としてすっかり欧米で有名になった高市総務相とネオナチの関係、さらにはヘイトスピーチ規制法を利用して民主的デモの抑圧しようという卑怯を通り超えて支離滅裂な高市氏の主張を紹介している。

ここまで詳細にエコノミストに在特会の正体を描かれて、しかもそんな「ごろつき」と閣僚が関係していることを書かれるとは。これで更迭しないなら安倍首相の責任、政権の国際信用失墜。そしてこんな下劣な閣僚たちを戴いて恥じない日本国民もまた軽蔑されることになる。

こうして日本での人種差別主義団体が伸張、内閣に繋がっているという、恥ずかしいことばかり並んでいる記事だが、日本市民によるカウンター行動が人種差別による暴力が歯止めになっていること、大阪高裁で在特会が敗訴して賠償金を課されたことの2つが救いか。在特会はカウンター行動を逆に自らの正当性に利用しようとしているようだが、そうした卑小な詭弁は国際社会では通用しない。

切れない関係
国家公安委員長・拉致担当大臣の山谷えり子氏が最近外国特派員協会で記者会見を行った。ここで山谷氏は記者たちから在特会との関係や、在特会のもつ人種差別思想への姿勢を問われたが、氏はこうした真摯な質問を無視し、回答をごまかしつづけた。そして、在特会の問題視を拒否、同会の人種差別思想を否定することも拒否、差別暴言の問題を、カウンターデモを行っている側を意識した様子で社会の小集団同士の諍いに矮小化する始末である。氏が語る言葉に論理も知性もない。あるのは口ごもった言葉にならない曖昧模糊とした呟きだけである。こんな人物が大臣である嘆かわしい現状を全ての国民が見るべきと思う。

人種差別を否定しないということは、山谷国家公安委員長は人種差別主義団体、在特会の思想・行動を容認しているということに他ならない。すなわち山谷氏自身が人種差別主義者であることを否定できないという意味だ。さらにいうと、外国人記者たちの鋭い質問を無視し、ここまで入念に在特会の批判を避けたということは、今なお山谷氏は在特会と強い結びつきがあると考えるのが自然だ。

今の先進国で閣僚、しかも警察を監督する立場のものが人種差別主義者である国はあろうか。山谷氏の記者会見は大きなスキャンダルである。こうした人物が大臣であるということは異常なことであり、一過性の間違いであると思いたい。この事態が当たり前になったときには、日本は文明国であることを棄てたと言うべきなのだから。こうして人種差別を批判できないような人間を閣僚にしている日本の有権者はいま世界に向けて恥を晒し続けている。

(Yahoo個人 筆者のページより転載)
posted by 小野昌弘 at 06:28 | TrackBack(0) | 政治・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月20日

アイスバケツチャレンジ、難病の研究・治療

ロンドンの真ん中で氷水かぶり(アイスバケツチャレンジ)をしまししたので、その報告です。
今回のアイスバケツは、ラテン歌手で小説家、さらには検察問題に取り組む「健全な法治国家のために声をあげる市民の会」会長として名高い八木啓代さんからご指名いただきました。それで本日、ロンドンの中心部にある子供病院「グレートオーモンド通り病院 (Great Ormond Street Hospital)」の前で、難病ALSの治療・研究のために、アイスバケツチャレンジ=つまり、バケツ一杯の氷水をかぶってきました。ちなみに、今日のロンドンの天気は晴れ、気温は16度でした


アイスバケツチャレンジの趣旨は、ALS(筋萎縮性側索硬化症)という神経の難病の患者さん方・その家族の療養、治療研究を支援しようというものです。

実は世の中には、ALSに限らず、難病を抱えた人々がたくさんいます。研究者の世界には、こうした難病を目の当たりにして、研究の道を志した人はたくさんいます。神経・再生の分野で世界に多大な貢献をされた故笹井芳樹先生も、ALSなどの患者さん方の診療を通じて、神経の研究に入られたのだということを、最近知りました(科学雑誌ニュートンでの対談)。

とはいっても、研究というものは、それなりに時間がかかります。今、難病があるがゆえに苦しみ、困っている人たちにとっては、未来の治療のための研究と同じくらい、いやそれ以上に、今の治療・療養のためのサポートがとても大事になります。それは、ALSならば同協会の活動の一部でもありますし、さらに大きな枠組みとしては、厚労省の特定疾患治療研究事業というものがありまして、ALSを含めた難病は、厚労省が特定疾患に定めて治療・研究の支援をしており、患者の自己負担の軽減がなされています。もちろん、さらにその基盤になっているのは、健康保険制度、いわゆる国民皆保険です。

難病は原因が殆どわかっていないものばかりです。逆に言うと、難病には、誰がかかってもおかしくないものなのです。そして、いったん難病にかかってしまうと、肉体・精神的な困難のみならず経済的にも大きな重荷を抱えることになります。これは誰が悪いわけでもない、不可抗力による困難です。そうして困っている人のことは、皆で助け合おう、万が一重い病にかかってしまった人は誰しも医療費を心配することなく良い医療をうけられるようにしよう、というのが公的健康保険制度の理念でしょう。

実は、難病に関して言うと、日本の健康保険制度は(厚労省の難病支援を含めても)万全ではなく、それなりの自己負担が生じ得ます。イギリスの健康保険に相当するNHS(国営の医療サービス)が、難病治療に関しては完全に無料であることを考えると、まだ日本の健康保険制度には改善の余地があります。

それどころか、こうした難病治療の基盤になっている国民皆保険制度が、近年の制度改悪・政治の無為・国民の無関心のために、危機に瀕して久しいです。手続き論はいろいろありますが、結局大事なのは、国民一人一人が見えない他人の困難を想像する力を持って、助け合いの精神を思い出すことかな、と思います。そして、みんなの共有財産である公的健康保険制度をより良いものに変えていくためにどうしたらいいかを考えることで、この制度は逆に危機を脱して再生できるのでは、と思います。

さて、こうした背景を踏まえて、次のチャレンジには、京都大学で神経科学の研究を押し進めていられる中村公一さん、幹細胞の研究で活躍されている小島洋児さんの二人の気鋭の研究者、そして元プロボクサーで震災後は気仙沼の本吉病院で復興と地域医療に尽力された川島実さんを指名させていただきました。川島さんは、この春で東北をリタイヤして休養中だったそうですが、最近UKのウェールズで開かれたトライアスロンIronman Wales 2014で「鉄人」になられたとのことです。今後が楽しみです。
posted by 小野昌弘 at 22:33 | TrackBack(0) | 科学・研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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