2014年05月10日

STAP問題:Natureに責任はないのか

科学誌Natureは2014年4月30日に、日本の研究不正についての編集部論説(editorial)を発表した。これによると、日本は総合科学技術会議の指示を聞き、科学者にデータの管理法を教えて、米国の真似をして研究公正局を作れとのことだ。

大変不思議なのは、NatureはSTAP騒動の当事者で、こうした事態を招いた相応の責任がある(少なくとも、責任があるかどうか問われなければならない)のに、そうした可能性についての言及が全くなく、まるで他人事のようだということだ。

また、この論説は明らかにSTAP問題への反応であるにもかかわらず、「日本の研究不正にはとても奇妙な例がある(some of the more bizarre cases)」と言って(STAP問題とは別の)十年以上前の考古学での捏造事件に言及しているが、そもそも、他国の研究不正、たとえば米国や欧州にも同じくらい奇妙な例があり、これは世界的な問題ではないのか。

しかもこの論説は、日本の科学者にデータ管理法を教えろという、上から目線(patronising)で日本に御丁寧に対応を指示しているようだ。これではNatureがSTAP問題での自らの立場を傷つけないために、前もって用意した印象操作のための論説と言われても仕方あるまい。そしてNatureは日本のシステムに問題をなすりつけて自らの責任を逃れようとしているようにしか見えない。

さらに、この論説は、日本の統治機構の組織改編を強く勧めているが、こうした政府機関の増設は日本ではまず有効性がなく官僚のポストや天下り先を増やすだけに終わるであろう。つまり、これは中立な科学論説の顔を持ちながら、特定の政治的立場を後押しする論説ともいえる。

もちろん、本ブログで度々指摘しているように日本の科学界には問題が山積しており、それらへの対応は緊急の課題だ。しかしNatureという問題の当事者(利害関係者)がいまやるべきことは、STAP問題に、Nature自身が持っている問題が関わっていないかどうかの自己批判が先であり、それをしなければ日本のシステムをいかに改善するかについての建設的な批判はできないであろう。しかもNatureは、各国政府が科学研究の評価の要につかっている方法で最高峰に位置し、現在の科学評価システムを象徴しており、それがゆえに科学評価全般にわたる問題と無縁ではない
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2014年05月07日

科学研究の再生に必要なのは研究者の自立と研究者社会の近代化だ

STAP問題で露呈したように、日本の医学生物学は実はとうの昔からすっかり危機に陥っている。この危機を打開し、研究への信頼を取り戻すためにはどうしたらよいだろうか。

結論をまず言うと、日本の科学社会の近代化が必要不可欠だと思っている。

経済危機以来アカデミアの状況が危機的であること、医学生物学に普遍的な問題が山積していること自体は世界的な現象だが、諸外国に比べても日本の状況はかなり悪い。

大きな目で見れば、昔ながらの階層社会(封建社会)の弊害を放置したままで、個人の本当の自立を育むことを怠ってきたために、現代の世界レベルでの激変に対応できなくなっているように見える。もちろん、90年代以来の大学改革により導入された、欠陥だらけの制度設計を放置したまま20年もの月日を浪費したことの失策による影響は無視できない。こうした問題の歪みを学生・ポスドクら若者に皺寄せし続けて来たが、それもいよいよ限界に来ている。

STAP問題はこうした危機の只中に起きた。医学生物学研究をとりまくあらゆる所に積もり積もった矛盾が、幾つかの偶然によってたまたま理研という場所でスポットを浴びるようになったのがSTAP問題だ。これは個人の些細な問題のせいで例外的に起きた問題ではない。

STAP問題は隠されていた危機を露にし、旧来の権威(大学、研究所、Natureら有名雑誌、ノーベル賞受賞者(野依理事長)、メディアによる科学報道など)をドミノ倒しのように崩しつつある。もはや研究の信用問題が泥沼化し、どこまで影響が広がるのか予測が立たない状況だ。

そもそもSTAP論文には4人ものコレスポ=責任者がいた。ということは、相応に違う専門的技量が必要な研究だったはずだ。それにも関わらず、論文のデータにまともに責任をとれる人がいなかったということは、この4人による研究プロジェクトが、本来的な分業に基づいていなかったことを示している。各責任者が、担当する専門分野にデータ取得から論文執筆まで責任を持っていたならば、このようなことは起こらなかったはずではないか。

私はここで研究室を人を歯車のように使う組み立て工場のようにしろと言うのではない。まったく逆のこと、つまり日本の前近代的な研究文化を、個人の尊厳と専門性を大事にする近代的文化に転換すべきだと言いたい。

私はかつて、おそらく日本で最も工場的な雰囲気の漂う研究室を見たことがある。そこでは研究リーダーという工場長以外は、まさに無名の労働者たちでしかない。専門性への尊敬や人間の尊厳は全く感じられない。多くのメンバーが単純作業を分担して、多額の経費を使用して大量のデータを集めることだけが目的とされているようだ。しかも出来上がる論文は、使った技術以上には目新しさがない。

およそ楽しそうな職場ではなかった。研究のディストピアだろう。このように若者を使い捨てにしている場所で次世代を担う優秀な研究者が育つだろうか。前世紀の紡績工場のような研究室で現代の複雑な問題に対応できるのだろうか。

現代の医学生物学では問題と技術が複雑化してしまい、もはや狭い分野にのみ精通した専門家一人では手に負えるものではない。異分野の研究者が集まって共同作業で問題解決にあたるよりほかない。

さて日本の医学生物学研究は、どれだけこうした複合的問題に対応できているだろうか。学生・ポスドクら若者は自分の所属教室の教授の目だけが気になり、教授は他のムラに踏み込まないように遠慮しあう。そして合同ミーティングも、結局権利関係を確認し合うだけで終わり、建設的に批判的な議論はできない。このような環境で実質のある研究はできない。

これまで異分野にまたがる研究(学際的研究)を多数行って来た研究者として言えるのは、学際的研究を行うために必要不可欠な条件は、参加する研究者が、研究者として自立していることだ。(もちろん個人としても自立している必要がある)

研究者として自立するためには、まず分野の深い知識と理解に裏付けられた、自分の専門性に対する強い信頼(confidence)を持つ必要がある。この信頼がある人は、自然と自分の分野外の専門家のことも同様に尊敬するようになる。ただし、この信頼は丸投げを意味しない。共同研究においては参加する研究者全てが厳しい批判的な議論を納得するまで行う。この対話は自立した研究者間でないと成り立たない。そしてこの異分野間の対話こそが、学際的研究を深めて真実に近づくために最も重要な基盤だ。

これらは日本の伝統的ムラ社会が最も苦手とする事柄かもしれない。しかし、個人が尊厳を感じられない場所で優れた多角的研究・学際的研究が行われることはありえない。個人が自立していない場、専門性が尊重されない場で、現代の複雑な科学は進歩しない。体裁だけ整えてもやがてぼろがでる。

制度的な裏付けも必要だろう。論文数とインパクトファクターに偏った今の評価法ではなく、研究者が自らの専門を長期間かけて深めていくことに対する評価や、他分野・共同研究への貢献に対する評価を研究者の評価の中心に据えていく必要があろう。そしてもちろん評価をより公正なものにしていく努力が必要だ。こうした研究者評価の価値観および制度の充実こそが、研究者として信頼でき、実のある共同研究ができる専門家を育成するためには必要だろう。そして広い視野・長期的評価を重点におけば、研究不正をしてその場しのぎをするような空虚な人物を自然に淘汰・排除することができる。

真の意味での分業・共同研究の推進は、密室性の高い日本の研究室を透明化するという作用もあるだろう。多数の目があれば、捏造や研究不正の入り込む余地も減るし、セクハラ・パワハラといった人権問題も防止できよう。実際、教授を殿様とする城とも言える研究室内だけで行われるミーティングは、往々にして研究室内での公開リンチの現場になっている。

日本の研究者社会も、ほかの分野と同様、ムラ社会の結束と長時間労働にのみ過度に依存して来た。しかし日本社会で研究をするからといって、この2点にだけアイデンティティーを求めなくてよい。いや、もう求めてはいけない。時代は変わり、今や人海戦術はとりたてて日本の強みではなくなっている。それよりも若者がシニアの短期的利益のために使われて、単純作業による長時間労働を強要され、自分の能力を伸ばす機会を奪われていることの損失のほうが大きい。そしてこの構造の中で、日本の蓄積してきた知識・技術の継承に支障が出て、若い頭脳による創造性を育むことができなくなっているという2つの弊害のほうが大きすぎる。(それなのに日本では、強迫的にこの長時間労働のアイデンティティーにしがみついている研究者が多すぎるように思う)

時代の流れの中で変わることを恐れる必要は全く無い。

倫理講習をお経のように聞くことが今必要なのではない。いま日本の医学生物学研究の場で本当に必要なものは、研究社会の近代化のための意識変革と制度設計だ。

研究者たちはSTAP問題を対岸の火事にしてはいけない。この問題は理研ではなく東大や京大で起きてもおかしくなかったし、幹細胞学特有の問題ではなく、免疫学で起きても全く驚かない。そして今、日本の全ての研究機関・学会・科学者の信用が崩壊しつつあるのだという厳しい認識を持つべきだ。これは大学・研究の自治の危機といっても過言ではない。

日本の研究社会の再生のためには、個人の尊厳と自立、専門性に対する敬意の回復が不可欠だ。これらはいま日本社会が広く失っている要素かもしれない。根は深い問題だが、今これに手をつけなければ日本の医学生物学研究の再生はないと思う。

2014年5月3日 yahooニュース個人の記事より一部変更・加筆のうえ転載)
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2014年05月04日

日本の研究社会の前近代性について

STAP問題は現在の医学生物学研究に広く見られる問題と関連している。医学生物学の研究室が共通して抱える問題を知らなければ、STAP論文における個別的問題も見えてこない。

ここでまず認識すべきなのは、今や医学生物学の研究室は工場であるという現実だ。工場長(教授、グループリーダー、上席研究員など)が労働者(学生・ポスドク・テクニシャン)を使って論文を生産する。生産手段(研究費、実験室、研究機器)は工場長のみが権利を持っているため、生産されたものは工場長の持ち物だということになる。そして、論文という生産品を売る(=論文をよい雑誌に掲載する)ことで資本を回収し(競争的研究費を獲得し)研究活動を継続する。

工場という形容が嫌ならば、映画製作所だと言っても良いだろう。重要なのは、トップに大きな権限が集中していることだ。実験技術・機器が高度化し、世界的に競争が激化しているため、Natureなどの有名雑誌に論文を載せるためには、相当な額の研究費が必要になってしまっている。この流れは、加速することはあっても、元に戻ることはないだろう。

この構造が、日本の場合には、社会に広くみられるヒエラルキー(階層社会、上下関係)と密接にからまり合って、問題をこじらせている。

ところで論文という生産品の権利関係を研究の世界で公式に示すのが、論文の著者名の順番になる。トップは、論文の著者名で最後の位置を占めること(ラスト・オーサー)および連絡著者(コレスポンディング・オーサー;コレスポ)になることで論文に対する権利を示す。基本的に、コレスポであるということは、工場長として論文の生産過程・品質全体に責任を持つということである。

ちなみに2本のSTAP論文ではコレスポ=責任者が4人いた。これは責任者が沢山いたという意味だ。しかし実際にデータを取得していたのが筆頭著者の一人だけなら、まさに船頭多くして舟沈むという事態だったのかもしれない。この点についてはまた別の稿で詳しく述べたい。

繰り返すと、医学生物学の研究室とはトップに大きな権限が集中している工場のようなものである。そして日本の医学生物学研究という工場は、良くも悪くも家内制手工業の段階にある。研究プロジェクトは、基本的には一人の第一著者(ファースト・オーサー、またの名をピペド=ピペット奴隷)が実験して、コレスポ=工場長=教授が監督している。(論文にみられるそれ以外の著者の役割は「手伝い」と読んだら良い)

学生、ポスドクら若者の側からみると、よい論文を生産することで労働者として使いがいがあることを示す強い必要性がある。これを公式に示すのが、論文の著者名で第一著者(ファースト・オーサー)になることだ。

今やほとんど全ての若者の職は有期雇用だ。しかも大学院重点化の弊害で、次々山のように新しい博士が生まれるのだから、競争は激しい。これを勝ち抜いて次の職を得るうえで有利になるためには、第一著者の論文をなるべくたくさん、しかも有名雑誌に出版するしかない。これは並大抵の努力ではできない。有能な学生・ポスドクが生活を全て研究に捧げたとしても、運がよくなければ生き残れない世界だ。だから若者も必死で第一著者になろうとする。他の同僚と気軽に成果を分け合うことはできない。研究室の同僚は競争相手だ。

ちなみに第一著者が未熟すぎて使い物にならないときには、工場長が直接指導するのは面倒なので(実際、最新機器を使った実験を指導する能力がないので)ポスドクあるいは助教が日々の監督者として使われる。こうして中間管理職になった若手研究者たちは、自分の職の安定すらままならないのに、研究者として一番脂がのっている時期に、本来自分の研究に打ち込むべき貴重な時間を学生の世話に捧げざるをえなくなる。こうなると自分の研究が片手間になる。こうして最も柔軟な頭と体力を持った世代を無駄に食いつぶすことは社会的に大きな損失であるし、当事者にとっては恐ろしく大きなストレスになる。

私自身、日本で助教をやっていたとき、日中は学生らの面倒で時間が潰れてしまうので、自分の研究を始められたのは夕方5時も過ぎてからだ。それから真夜中まで働いても十分な仕事はできるものではない。これでは研究者として将来への希望はしぼむ一方だ。統計は見たことがないが、医学系研究室では、こうした中間管理職の立場の助教らに自殺者が多いように思う。深刻な問題だ。

いま医学生物学の研究室で、若者たちは実に前近代的な雇用環境下にある。本来的には学生は労働者ではないし、ポスドクは通常大学・研究所から雇用されている。少なくとも誰も、工場長である教授たちから雇用されている者はいない。しかし、実質的に採用・雇用の延長(学生ならば卒業後のポスト、ポスドク/助教なら有期雇用なので通常1年単位での更新)といった人事権は全て教授に集中している。教授はまるで自分の私物のように学生・ポスドクらを扱い、圧倒的に強い権力を楽しむ。

そもそも研究の場所、道具、試薬等全てに教授が権利を持っているので、研究室自体が教授がお殿様の城のようになっている。

第一著者になることをめぐって競争し合うピペド学生・ポスドクたち。まだピペドの立場でありながらピペド使いとなった助教・ポスドクたち。彼らの利害は常に対立し、感情的に衝突することが日常的になっていく。

こうした状況は教授からみて好ましいようで、研究室のメンバー同士の対立・衝突が積極的に教授により煽られることも珍しくない。工場長からみて労働者は分断されていたほうが扱いやすいのだ。分断され団結していない労働者ならば、工場長との力関係の差は無限大だ。さらにこの構造は、日本の研究室の密室性とあいまって、パワハラ・セクハラの温床ともなっている。そしてこの問題は若者の雇用が不安定化することで急速に悪化した。

こう書いていると、私が大学院生のころ教授に言われた言葉を思い出す。「あなたたち(学生・ポスドク)は高い試薬・機械を使っているのだから、そもそも借金があるようなものだ。その分働いてもらわないと困る」という言葉だ。私はこれを聞いた瞬間に、学生のころ読んだ、ある本を思い出し、非常に感慨深かった。

その本とは、マルクスの「資本論」だ。

おそらく、現代日本のピペドたちは「資本論」を読むべきなのだろう。この教授の言った、「研究活動に必要なコストの分まで多く働くべき」という考え方は「資本論」の中で詳細に描かれている。19世紀末、産業革命後にはじめて機械が導入された当時の欧州の工場で、工場長たちがはまさにこの論理=労働者は自分が使用する機械のコストの分まで多く働くべき=で、労働者たちを不当に低い給料で長時間働かさせて大きな利潤を生み出していたのだ。

私は大学の研究室に入ったつもりだったが、どうやら19世紀末の欧州の工場で酷使されていたプロレタリアートをリアル体験していたようだ。

そろそろ、日本の医学生物学研究の大学院生・若手研究者たちがどのような立場にあるか、どういう環境で研究という労働をしているかが見えてくるだろうか。

もはや日本の医学生物学研究の場には、かつての学問の場であるアカデミアがもっていた尊厳はまるでない。それどころか人間的な労働環境は無く、将来への希望も無い。もちろん比較的状況がよい研究室もあろう。しかし標準例・成功例がこうした悲惨な状況になっていることはもっと認識されるべきだ。

これは決して正常な事態ではない。システムの欠陥を現場に皺寄せし続けた結果だ。しかし末端の若者を酷使して帳尻を合わせるのももう限界なのではないか。

研究成果は雇用と直結している。雇用をめぐる歪みがセクハラ・アカハラ・パワハラの横行する大学・アカデミアという何とも情けない状況に至り、労働環境の悪化の原因になっている。これらの問題を無視して「研究の倫理」なるものを唱えても空々しい。雇用問題・労働問題は最も大事な課題で、避けて通れないはずなのに、大学院重点化以来のあらゆる改革という改革で、この最重要のものがおざなりになってきたのだ。

研究とは本来、夢と精神の自由があり、頭脳と技術の研鑽を楽しめる世界のはずだ。研究の場に人間的な環境を取り戻し、研究体制を近代化して効率のより良い、しかも頑強な体制に変えて、日本の医学生物学研究を正常化させることはまだ可能だと思う。次回はこれについて私見を書きたい。

2014年4月30日 yahooニュース個人の記事より一部変更、転載)
posted by 小野昌弘 at 20:31 | TrackBack(0) | 科学・研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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