2014年04月21日

STAP問題で明らかになった科学評価システムの制度疲労 (下)問題は理研とNatureにとどまらない

(下)問題は理研とNatureにとどまらない
STAP論文が明らかにした科学評価の形骸化という問題を見ていると、アメリカの赤狩りでマッカーシーが用いた詭弁を思い起してしまう。

マッカーシズムの語源となった米国、共和党の政治家であるマッカーシーは、冷戦時代にアメリカでの過激な反共産主義運動=「赤狩り」を主導した政治家だ。この運動は実質的に共産主義とは関係ない、魔女狩りになって、後に深く反省されたものであるが、マッカーシーの煽動のスタイルは、いつも大きな書類の山を政治家や記者たちの前に見せて、「この中に証拠がある」と言い、煙に巻いたが、実際にはその何百ページという資料をみても、どこにも「赤狩り」を正当化する証拠は見つからなかったという。

最近の有名雑誌の論文は補助的なデータもあわせるとデータ・記述が多すぎて読み切れない。査読を担当する研究者は、何の報酬もなく論文を批判的に読んで問題点を指摘しなければならないが、過剰な競争のもとでますます忙しくなっている研究者にとって、査読の負担はいよいよ大きくなってきている。

Natureは最近補助的データの量を制限しだしたが、それでも実際、STAP論文は2つの論文にふくれあがっていた(本来一つの論文でもよかっただろうに)。STAP問題は、ここ最近医学生物学で助長していた、複雑化した実質のない論文が横行する=研究のマッカーシズム化=の行き着く先だったのかもしれない。

科学評価システムの実質がなくなり形骸化しているならば事態は深刻だ。なぜなら、各国政府は、Natureが象徴する科学の評価システムに依拠して、多大な税金を医学生物学研究に注ぎ込んでいるからだ。その評価システムが信用ならないとなると、今のような多額の税金を注ぎ込むことはもはや正当化されない。

Natureという権威が張り子の虎で、さらにはインパクトファクターという評価システムが、単なる科学者ギルドの守り神でしかなく実際には役立っていないものならば、研究者の評価システムはいずれ抜本的に改革されなければならない。そうなると有名科学雑誌も存続が危うくなる。

最近、ノーベル賞を受賞したシェックマンが、Nature, Cell, Science に対する強烈な批判を展開した。シェックマンはeLife という米英独の巨大研究組織が合同でつくった新しい雑誌の編集者であり、この雑誌はもともとNatureらの古い権威に対抗する新しい権威作りを目指して始まったものだ。

古い科学の権威に対抗する新しい動きが既に始まっている。科学研究体制の抜本的改革が避け難いのと同様に、科学評価システムの再編も必ず起こるだろう。
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2014年04月20日

STAP問題で明らかになった科学評価システムの制度疲労 (中)形骸化してきているNatureら有名雑誌の論文査読システム

(中)形骸化してきているNatureら有名雑誌の論文査読システム
STAP論文のおかげで皮肉的な事実が垣間見えた。それは、論文の科学的妥当性を判断するのが目的のはずの査読が、Natureが求めるような「多角的に研究された論文」(=多くの機械をつかって色々なデータを揃えている論文)の検証にたいして役に立っていないことだ。さらに深刻なことだが、せっかく高額の先端機器を使って集められたデータがただの飾りにしかなっておらず、論文が主張している仮説の検証に全く寄与していないということだ。

STAP問題で、ネット上での検証作業が論文の査読に勝る可能性が提示されたのは重要だ。Knoepfler博士のブログが様々な生物学的問題点を指摘した。また十一次元を名乗る方により画像データの問題点が報告された。ブログ「kahoの日記」は、論文のシークエンス・データ(核酸配列を読んだデータ) を直接解析すると、色々矛盾点が見つかることを指摘した。たとえば、新規に作られたという論文のSTAP細胞と通常実験室でよく用いられているES細胞がシークエンスデータ上はありえないほど非常に似通っていたそうだ。

多分、忙しい研究者であるSTAP論文の査読者にはこうした問題点を追求できる余裕がなかったのだろう。(だが上記のひとたちも恐らく忙しい研究者だ)

しかしひょっとすると、技術が複雑化したために、Natureが通常揃えるような3、4人程度の、分野で実績のある研究者(=たいてい年を取っていて、実際には先端技術についていけていないひとたち)と幾人かの専門の編集者たちだけでは今時の論文を検証しきれないのかもしれない。

Natureは「多角的研究で検証された、インパクトがある美しいストーリーをもった論文」を求める。この姿勢は、間違いなく、確認バイアス(=つい仮説に合う証拠だけよりすぐってしまうという人間のさが)を助長する。技術が進歩して、そういう一見仮説と合っているデータを集めることが(どんなに仮説が間違っていても)可能になる事態が増えている。

そもそも、仮説に反するデータを提示することはNatureのような雑誌に載せる上では大抵負にしか働かない。矛盾するデータは隠し、複雑なデータだけ載せてお茶を濁す論文が横行する。最新機器を使ったデータをただの飾りとして用いているので、論文の実質はよりいっそう空虚になる。査読・編集の側からいうと、こうしたデータの不適切な提示は、論文の仮説検証の深度を見極めるための障害にすらなっている。最近こういう問題を抱えた論文が、世界的に著明な研究室から有名雑誌に多数掲載されている。そして、われわれ科学者はその裏を想像しながら論文を読まなければならないという、実に馬鹿げた事態が生じている。

特に日本では実際に論文を書いている教授(シニアの連絡著者[コレスポンディングオーサー])が往々にして実験・データ解析に全く関わっていないために、この問題が深刻化する。日本は、世界的に見て豊富な予算を科学に投資している一方で、団塊世代の教授たちが職に居座っていることで世代交代が進まず、若者の雇用問題も絡んでシニア・ジュニアの乖離が進んでいる。この日本でSTAP問題が起きたのは、ある意味必然だったのかもしれない。

STAP問題のおかげで、論文の出版後のネット上での議論をより重視する姿勢が正しいことが裏付けられた。さらには、論文の査読過程を公開する雑誌も珍しくなくなって来ている。今回のSTAP論文では、それを望む者も多いようだ。こうした試みでは、PLOSやF1000、BMCなどが先駆的であるが、この動きは今後強まるだろう。科学の評価のあり方が変化しつつある。
posted by 小野昌弘 at 23:58 | TrackBack(0) | 政治・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

STAP問題で明らかになった科学評価システムの制度疲労 (上)勝者が勝ち続ける理由

(上)勝者が勝ち続ける理由
Natureは、各国政府が科学研究の評価の要につかっている方法で最高峰に位置し、現在の科学評価システムを象徴している。Cell, Scienceという雑誌もあるが、最近この3誌は、医学生物学の分野においては非常に似てきている。

3誌の編集方針に共通するのは、科学界に対する広いインパクトがある論文を掲載する方針だ。幅広い読者を対象にするので妥当な方針だと思う。つまり、科学的にいかに質が高くても、インパクトがなければ載せない。そして、このインパクト重視の姿勢が、Natureはタブロイド誌だと言われるゆえんだ。

このことは皆分かっているのだが、最近、予算が各国で削減傾向にあるので、科学者の競争が激化。特に日米では、Natureなどの有名雑誌に論文を出版していないと、ジュニアならば定職につくのがいよいよ難しくなっているし、シニアならば大きな研究グラントを持続して獲得することが難しくなっている。だから、医学生物学領域での研究者であれば、喉から手が出るほどこれらの雑誌に論文を載せたい。

インパクトとは何か。簡単にいうと、時代のトレンドに乗っているもの(多くの人が研究している分野であること)か、人々を驚かせるもののどちらかであることだ。STAP論文は、この二つの要素を兼ね備えていた魅力的な論文であった。それがゆえに、Natureも積極的にこの二つの論文をプロモーションした。

つまりNatureに論文を載せるためには、流行の分野を研究する必要がある。あるいは古くからある問題を解決した、という触れ込みも、人々を驚かせるがゆえに好まれる。かつて京大生化学講座の先々代の沼教授は学生たちに100年前の文献から読んで論文を書くように指導したと伝え聞く。その当時から同様の雰囲気はあったのだろう。しかし流行の分野で競争に勝つのは容易ではない。また、いつも人の目を驚かせるような研究結果が出せるも限らない。それでも日米の有名教授たちは定期的にNatureを出版できる。なぜか。

一般的にいって、Natureに論文を出すために必要なのは、分野で著明な研究者となることだろう(にわとりと卵のような話だが)。有名な研究者からの論文は明らかに雑誌の編集者による審査を通りやすい。また論文の査読は同業者(一種のインナーサークル)のみでなされることが多く、結局は分野の権益を拡大するために甘い審査になるという傾向もあるようだ。

もうひとつNatureに論文を出すために大事なのは、言ってしまうと身もふたもないが、沢山お金を使ったという証拠だ。論文で最先端の技術(これは大抵高額だ)を使うと座布団が何枚かもらえて査読で有利になる(しかも査読する研究者は往々にして最先端技術によるデータを読めないので、これも有利にはたらく)。

このような研究をできる場所は世界でも限られてくる。先進国の先端的研究センター、大研究室でない限り、それだけ大規模な研究予算はないわけだし、先端技術にアクセスもできない。また人手の数は予算に比例するので、特に人権が守られている欧州の多くの国では無理がきかない。一方、日米は大学院生やポスドクを安価な労働力として奴隷的に酷使することで手持ちの予算・技術以上の競争力を保って来た。(これも持続可能なことではないのは自明だが)

この状況だから必然的に、限られた数の大研究室に科学研究費と労働力を集約するという傾向が全世界で見られている。そして日米で顕著なように、若者が酷使され使い捨てられる状況は見て見ないふりをするようになっている。

こう書くと、Natureという雑誌が、科学界での序列を維持する仕組みの要の位置にあることがうっすらと分かってこよう。フランスの哲学者のブルデューは学歴を利用した社会階層の再生産について語ったが、科学界にも階層の再生産を支える仕組み、つまり既に権力を持っている科学者たちが勝ち続けるための仕組みが存在する。実際、勝ち続ければ大きな予算が手に入り、大きな権力と研究者として上位の生活を維持できる。この仕組みを支えている大きな柱のひとつがNatureの権威だろう。

果たして科学研究予算は、公正かつ効率的に分配され使用されているのだろうか?一部の研究者グループに過剰に予算が集中して無為に浪費されていはしないだろうか?

Natureという権威が、科学研究のあり方を形作る一つの要因になっている。そして、その権威は科学の発展にとって望ましくない方向に暴走してきた。これはNature側にではなく、Natureをありがたがる各国の科学者たち、政府の科学政策担当者たちの怠慢に問題がある。
posted by 小野昌弘 at 23:45 | TrackBack(0) | 科学・研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする