2014年04月20日

STAP問題で明らかになった科学評価システムの制度疲労 (中)形骸化してきているNatureら有名雑誌の論文査読システム

(中)形骸化してきているNatureら有名雑誌の論文査読システム
STAP論文のおかげで皮肉的な事実が垣間見えた。それは、論文の科学的妥当性を判断するのが目的のはずの査読が、Natureが求めるような「多角的に研究された論文」(=多くの機械をつかって色々なデータを揃えている論文)の検証にたいして役に立っていないことだ。さらに深刻なことだが、せっかく高額の先端機器を使って集められたデータがただの飾りにしかなっておらず、論文が主張している仮説の検証に全く寄与していないということだ。

STAP問題で、ネット上での検証作業が論文の査読に勝る可能性が提示されたのは重要だ。Knoepfler博士のブログが様々な生物学的問題点を指摘した。また十一次元を名乗る方により画像データの問題点が報告された。ブログ「kahoの日記」は、論文のシークエンス・データ(核酸配列を読んだデータ) を直接解析すると、色々矛盾点が見つかることを指摘した。たとえば、新規に作られたという論文のSTAP細胞と通常実験室でよく用いられているES細胞がシークエンスデータ上はありえないほど非常に似通っていたそうだ。

多分、忙しい研究者であるSTAP論文の査読者にはこうした問題点を追求できる余裕がなかったのだろう。(だが上記のひとたちも恐らく忙しい研究者だ)

しかしひょっとすると、技術が複雑化したために、Natureが通常揃えるような3、4人程度の、分野で実績のある研究者(=たいてい年を取っていて、実際には先端技術についていけていないひとたち)と幾人かの専門の編集者たちだけでは今時の論文を検証しきれないのかもしれない。

Natureは「多角的研究で検証された、インパクトがある美しいストーリーをもった論文」を求める。この姿勢は、間違いなく、確認バイアス(=つい仮説に合う証拠だけよりすぐってしまうという人間のさが)を助長する。技術が進歩して、そういう一見仮説と合っているデータを集めることが(どんなに仮説が間違っていても)可能になる事態が増えている。

そもそも、仮説に反するデータを提示することはNatureのような雑誌に載せる上では大抵負にしか働かない。矛盾するデータは隠し、複雑なデータだけ載せてお茶を濁す論文が横行する。最新機器を使ったデータをただの飾りとして用いているので、論文の実質はよりいっそう空虚になる。査読・編集の側からいうと、こうしたデータの不適切な提示は、論文の仮説検証の深度を見極めるための障害にすらなっている。最近こういう問題を抱えた論文が、世界的に著明な研究室から有名雑誌に多数掲載されている。そして、われわれ科学者はその裏を想像しながら論文を読まなければならないという、実に馬鹿げた事態が生じている。

特に日本では実際に論文を書いている教授(シニアの連絡著者[コレスポンディングオーサー])が往々にして実験・データ解析に全く関わっていないために、この問題が深刻化する。日本は、世界的に見て豊富な予算を科学に投資している一方で、団塊世代の教授たちが職に居座っていることで世代交代が進まず、若者の雇用問題も絡んでシニア・ジュニアの乖離が進んでいる。この日本でSTAP問題が起きたのは、ある意味必然だったのかもしれない。

STAP問題のおかげで、論文の出版後のネット上での議論をより重視する姿勢が正しいことが裏付けられた。さらには、論文の査読過程を公開する雑誌も珍しくなくなって来ている。今回のSTAP論文では、それを望む者も多いようだ。こうした試みでは、PLOSやF1000、BMCなどが先駆的であるが、この動きは今後強まるだろう。科学の評価のあり方が変化しつつある。
posted by 小野昌弘 at 23:58 | TrackBack(0) | 政治・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

STAP問題で明らかになった科学評価システムの制度疲労 (上)勝者が勝ち続ける理由

(上)勝者が勝ち続ける理由
Natureは、各国政府が科学研究の評価の要につかっている方法で最高峰に位置し、現在の科学評価システムを象徴している。Cell, Scienceという雑誌もあるが、最近この3誌は、医学生物学の分野においては非常に似てきている。

3誌の編集方針に共通するのは、科学界に対する広いインパクトがある論文を掲載する方針だ。幅広い読者を対象にするので妥当な方針だと思う。つまり、科学的にいかに質が高くても、インパクトがなければ載せない。そして、このインパクト重視の姿勢が、Natureはタブロイド誌だと言われるゆえんだ。

このことは皆分かっているのだが、最近、予算が各国で削減傾向にあるので、科学者の競争が激化。特に日米では、Natureなどの有名雑誌に論文を出版していないと、ジュニアならば定職につくのがいよいよ難しくなっているし、シニアならば大きな研究グラントを持続して獲得することが難しくなっている。だから、医学生物学領域での研究者であれば、喉から手が出るほどこれらの雑誌に論文を載せたい。

インパクトとは何か。簡単にいうと、時代のトレンドに乗っているもの(多くの人が研究している分野であること)か、人々を驚かせるもののどちらかであることだ。STAP論文は、この二つの要素を兼ね備えていた魅力的な論文であった。それがゆえに、Natureも積極的にこの二つの論文をプロモーションした。

つまりNatureに論文を載せるためには、流行の分野を研究する必要がある。あるいは古くからある問題を解決した、という触れ込みも、人々を驚かせるがゆえに好まれる。かつて京大生化学講座の先々代の沼教授は学生たちに100年前の文献から読んで論文を書くように指導したと伝え聞く。その当時から同様の雰囲気はあったのだろう。しかし流行の分野で競争に勝つのは容易ではない。また、いつも人の目を驚かせるような研究結果が出せるも限らない。それでも日米の有名教授たちは定期的にNatureを出版できる。なぜか。

一般的にいって、Natureに論文を出すために必要なのは、分野で著明な研究者となることだろう(にわとりと卵のような話だが)。有名な研究者からの論文は明らかに雑誌の編集者による審査を通りやすい。また論文の査読は同業者(一種のインナーサークル)のみでなされることが多く、結局は分野の権益を拡大するために甘い審査になるという傾向もあるようだ。

もうひとつNatureに論文を出すために大事なのは、言ってしまうと身もふたもないが、沢山お金を使ったという証拠だ。論文で最先端の技術(これは大抵高額だ)を使うと座布団が何枚かもらえて査読で有利になる(しかも査読する研究者は往々にして最先端技術によるデータを読めないので、これも有利にはたらく)。

このような研究をできる場所は世界でも限られてくる。先進国の先端的研究センター、大研究室でない限り、それだけ大規模な研究予算はないわけだし、先端技術にアクセスもできない。また人手の数は予算に比例するので、特に人権が守られている欧州の多くの国では無理がきかない。一方、日米は大学院生やポスドクを安価な労働力として奴隷的に酷使することで手持ちの予算・技術以上の競争力を保って来た。(これも持続可能なことではないのは自明だが)

この状況だから必然的に、限られた数の大研究室に科学研究費と労働力を集約するという傾向が全世界で見られている。そして日米で顕著なように、若者が酷使され使い捨てられる状況は見て見ないふりをするようになっている。

こう書くと、Natureという雑誌が、科学界での序列を維持する仕組みの要の位置にあることがうっすらと分かってこよう。フランスの哲学者のブルデューは学歴を利用した社会階層の再生産について語ったが、科学界にも階層の再生産を支える仕組み、つまり既に権力を持っている科学者たちが勝ち続けるための仕組みが存在する。実際、勝ち続ければ大きな予算が手に入り、大きな権力と研究者として上位の生活を維持できる。この仕組みを支えている大きな柱のひとつがNatureの権威だろう。

果たして科学研究予算は、公正かつ効率的に分配され使用されているのだろうか?一部の研究者グループに過剰に予算が集中して無為に浪費されていはしないだろうか?

Natureという権威が、科学研究のあり方を形作る一つの要因になっている。そして、その権威は科学の発展にとって望ましくない方向に暴走してきた。これはNature側にではなく、Natureをありがたがる各国の科学者たち、政府の科学政策担当者たちの怠慢に問題がある。
posted by 小野昌弘 at 23:45 | TrackBack(0) | 科学・研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月08日

科学ニュースという大本営発表

STAP論文では、その発表時からマスコミの反応は異常だったが、論文に疑義が生じてからは、その反動で過剰なバッシングになっている。割烹着やピンクの部屋といった宣伝材料を用意したという理研もどうかと思うが、そもそもそういう科学の本質と無縁な宣伝に乗るマスコミ・視聴者もどうかしている。しかし、これも考えてみると起こるべくして起きた事態だ。

この事態をみて、昔京大で働いていた頃、自分が発表した論文について記者会見したときの様子を思い出した。有名雑誌に掲載が決まった論文は、発表と同時に新聞記事が出る。どうしてそんなことになるか訝る人も多いだろうが、実はこれには決まった方法がある。

有名雑誌に論文掲載が決まると、研究者は大学本部および、自分たちに研究費を支給している省庁関連の助成機関に連絡する。すると、その省庁関連機関が、論文掲載日に合わせて、文科省などに設置されているマスコミ連絡用の「ポスト(郵便受け)」に、新聞記事にするための情報(論文の概要)を投稿する。このマスコミ用原稿の下書きは研究者側が用意して、研究費助成機関の担当者がマスコミ向けに分かりやすいように仕立て直す。

さて、その掲載雑誌が超有名雑誌だと、そのポストの投稿をみた新聞社から大学に連絡が入り、記者会見が行われる。実は京大の中にさえ「記者クラブ」があり、科学記事担当の記者が常駐している。だから京大の研究者は本部にある記者クラブに行って話をすればいいだけなので、便利なのは確かだ。(ただ、どうして京大がわざわざ大きな一部屋を私企業の社員たちに提供しているのか、大きな違和感を感じたが。)

その記者会見をしてよく分かったが、残念ながら、日本の新聞では科学評論能力がある記者は大変少ない。7、8社の新聞社の記者たちから取材されたが、まともに話が通じた記者は、朝日の某科学ジャーナリスト一人だけだった。その朝日の記者は物理学の研究者をしていた方で、生物学についてもよく勉強しているようで、理解は早かった。しかしほかの記者は全て、基礎的な生物学の知識すらおぼつかなく、ましてや先端研究の機微については全く理解していなかった。

科学ニュースの取材現場はこんなものだ。簡単にいえば、文科省発表の受け売りばかりだ。だから当然、研究機関による発表の受け売りになる。いかに凄い発見をしたかだけが書いてあって実質のない記事ばかりになるわけだ。(尤もこれは科学に限ったことではないですね。最近ニュースになった冤罪事件などでも、検察や警察の発表を批判なしに垂れ流すことが冤罪につながったのだから)

だから昔から私は自分の中では、科学ニュースのことを「大本営発表」と呼んでいた。どの記事を見ても、世界的発見が書いてあり、医学生物学の分野の発見なら、翌年にでも病院での治療に応用できそうな勢いだ。日本の研究は凄いのだ、世界の競争に競り勝ち、Natureら有名雑誌に載って、世界に先んじて治療に応用できるのだ、と。まるで2、3年で全ての病気が簡単に治癒できるようになりそうな話ばかりだ。しかし、現実には、こうした科学ニュースになっている発見のうち、本当に治療に応用できるところまでいくのはごくごく一部だ。

それにしても、どうしてこんな大本営発表をしなければならないのだろうか。科学者にとっては、新聞にとりあげてもらうことで地位・研究費の獲得で優位になるためであり、研究機関(大学)にとっては、省庁からの予算を引き上げるための材料であり、文科省・政府にとっては、国民から絞り上げている税金が日本の進歩・利益のために効率よく使われているという宣伝だ。このどれもが科学的真実とは無縁で、だから大本営発表なのだ。

そもそも、先端科学の1論文で分かることなどある現象の小さな1側面にすぎない。しかも、その発見がどれくらい妥当なことかは、何年も、ときには何十年もかけて検証されていくものなのだ。STAP細胞の発表直後にツイートしたが、Natureに載った1論文のことごときで大臣が声明を出すということ自体が、日本の科学に対する理解度、科学政策の未熟さを反映している。

それにしても、政府・マスコミの共同作業で作った「大本営発表」の仕組みのために、マスコミどころか大臣までその大本営発表に翻弄されて、科学政策が迷走するとは何とも皮肉なことではないか。

本日、東大の松岡氏と京大の中辻氏が、科学の分野で若者たちの置かれた現状について、二次大戦の悲劇と重ねたツイートをしていた。まさに、大本営発表の裏では、その成果発表のために酷使され、研究費・研究体制の不備を深夜までの労働で補い、定職につくための一抹の望みを上部に悪用されて使い捨てられていく若者たち、医学生物学ならピペド(ピペット奴隷)、がいる。

科学ニュースという大本営発表のために人生を削られている若者たちがいる。STAP問題を機に、科学報道のありかたを考え直すべきだ。これに関連してマスコミ各社にぜひお願いしたいのは、科学記事の質の向上のために、経験のある研究者(ポスドク)を積極的に雇用することを考慮してほしい。彼らは日本の埋もれた財産のひとつだ。
posted by 小野昌弘 at 15:33 | TrackBack(0) | 科学・研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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