2014年04月08日

科学ニュースという大本営発表

STAP論文では、その発表時からマスコミの反応は異常だったが、論文に疑義が生じてからは、その反動で過剰なバッシングになっている。割烹着やピンクの部屋といった宣伝材料を用意したという理研もどうかと思うが、そもそもそういう科学の本質と無縁な宣伝に乗るマスコミ・視聴者もどうかしている。しかし、これも考えてみると起こるべくして起きた事態だ。

この事態をみて、昔京大で働いていた頃、自分が発表した論文について記者会見したときの様子を思い出した。有名雑誌に掲載が決まった論文は、発表と同時に新聞記事が出る。どうしてそんなことになるか訝る人も多いだろうが、実はこれには決まった方法がある。

有名雑誌に論文掲載が決まると、研究者は大学本部および、自分たちに研究費を支給している省庁関連の助成機関に連絡する。すると、その省庁関連機関が、論文掲載日に合わせて、文科省などに設置されているマスコミ連絡用の「ポスト(郵便受け)」に、新聞記事にするための情報(論文の概要)を投稿する。このマスコミ用原稿の下書きは研究者側が用意して、研究費助成機関の担当者がマスコミ向けに分かりやすいように仕立て直す。

さて、その掲載雑誌が超有名雑誌だと、そのポストの投稿をみた新聞社から大学に連絡が入り、記者会見が行われる。実は京大の中にさえ「記者クラブ」があり、科学記事担当の記者が常駐している。だから京大の研究者は本部にある記者クラブに行って話をすればいいだけなので、便利なのは確かだ。(ただ、どうして京大がわざわざ大きな一部屋を私企業の社員たちに提供しているのか、大きな違和感を感じたが。)

その記者会見をしてよく分かったが、残念ながら、日本の新聞では科学評論能力がある記者は大変少ない。7、8社の新聞社の記者たちから取材されたが、まともに話が通じた記者は、朝日の某科学ジャーナリスト一人だけだった。その朝日の記者は物理学の研究者をしていた方で、生物学についてもよく勉強しているようで、理解は早かった。しかしほかの記者は全て、基礎的な生物学の知識すらおぼつかなく、ましてや先端研究の機微については全く理解していなかった。

科学ニュースの取材現場はこんなものだ。簡単にいえば、文科省発表の受け売りばかりだ。だから当然、研究機関による発表の受け売りになる。いかに凄い発見をしたかだけが書いてあって実質のない記事ばかりになるわけだ。(尤もこれは科学に限ったことではないですね。最近ニュースになった冤罪事件などでも、検察や警察の発表を批判なしに垂れ流すことが冤罪につながったのだから)

だから昔から私は自分の中では、科学ニュースのことを「大本営発表」と呼んでいた。どの記事を見ても、世界的発見が書いてあり、医学生物学の分野の発見なら、翌年にでも病院での治療に応用できそうな勢いだ。日本の研究は凄いのだ、世界の競争に競り勝ち、Natureら有名雑誌に載って、世界に先んじて治療に応用できるのだ、と。まるで2、3年で全ての病気が簡単に治癒できるようになりそうな話ばかりだ。しかし、現実には、こうした科学ニュースになっている発見のうち、本当に治療に応用できるところまでいくのはごくごく一部だ。

それにしても、どうしてこんな大本営発表をしなければならないのだろうか。科学者にとっては、新聞にとりあげてもらうことで地位・研究費の獲得で優位になるためであり、研究機関(大学)にとっては、省庁からの予算を引き上げるための材料であり、文科省・政府にとっては、国民から絞り上げている税金が日本の進歩・利益のために効率よく使われているという宣伝だ。このどれもが科学的真実とは無縁で、だから大本営発表なのだ。

そもそも、先端科学の1論文で分かることなどある現象の小さな1側面にすぎない。しかも、その発見がどれくらい妥当なことかは、何年も、ときには何十年もかけて検証されていくものなのだ。STAP細胞の発表直後にツイートしたが、Natureに載った1論文のことごときで大臣が声明を出すということ自体が、日本の科学に対する理解度、科学政策の未熟さを反映している。

それにしても、政府・マスコミの共同作業で作った「大本営発表」の仕組みのために、マスコミどころか大臣までその大本営発表に翻弄されて、科学政策が迷走するとは何とも皮肉なことではないか。

本日、東大の松岡氏と京大の中辻氏が、科学の分野で若者たちの置かれた現状について、二次大戦の悲劇と重ねたツイートをしていた。まさに、大本営発表の裏では、その成果発表のために酷使され、研究費・研究体制の不備を深夜までの労働で補い、定職につくための一抹の望みを上部に悪用されて使い捨てられていく若者たち、医学生物学ならピペド(ピペット奴隷)、がいる。

科学ニュースという大本営発表のために人生を削られている若者たちがいる。STAP問題を機に、科学報道のありかたを考え直すべきだ。これに関連してマスコミ各社にぜひお願いしたいのは、科学記事の質の向上のために、経験のある研究者(ポスドク)を積極的に雇用することを考慮してほしい。彼らは日本の埋もれた財産のひとつだ。
posted by 小野昌弘 at 15:33 | TrackBack(0) | 科学・研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月02日

STAP問題が照らし出した日本の医学生物学研究の構造的問題

本日4月1日、通称STAP問題についての理研の調査委員会の報告があった。理研がどれだけ真摯に問題解決にあたるかはまだこれからの対応を見なければ分からないが、そもそも問題についての認識がずれているように思ったので、ここに思う所を書いた。

今回の事件で、STAP論文はNatureに載りながら実にずさんな研究であったことが暴露されてしまったわけだ。理研、著者たちに個別的な問題は勿論あろうが、些末で表面的な騒動に目をとられて、根底にある構造的問題が隠れてしまっている。

よく誤解されているので、STAPの著者と権利について明瞭にしておきたい。Natureの2論文が、もし完璧な論文だったと仮定して考えてみてほしい。そうしたら、論文から派生する莫大な権利・利益は誰が最も大きく享受するか?第一著者にも分け前はあるが、医学生物学の階層社会では、第一に利益を享受するのは間違いなく最終著者(ラストオーサー)兼連絡著者(コレスポンディングオーサー)の人たちであり、理研とハーバードだ。次に実権があるのは、シニアの他の著者であり、たとえ第一著者が連絡著者としても、医学生物学全般の慣習および日本の縦社会の2つから、間違いなく第一著者の分け前は主ではない。この点誤解している人が多い。一般的に最終著者と第一著者が両方連絡著者になることはあるが、医学生物学の場合、クレジット(取り分)は自動的にシニア(=最終著者)にいくものなのだ。

さて、繰り返そう。権利を得るのはシニアだ。では、なぜ実験データ=医学生物論文の実質であり本体=に対する責任がジュニアのみに課されるのか。もう一度誤解がないようにいうが、医学生物学の古風な慣習からしても、論文執筆を主導していないことからしても、問題判明後の理研の対応からしても、私はSTAP細胞の第一著者は、給料や名前を除けば、実質的にはジュニアの身分(実質的平社員)として扱われていると見ている。

STAP研究は、少なくとも、ずさんだ。しかし、このずさんさは、正直なところ、日本の基礎医学生物学研究でよくみられるずさんさの延長だと思う。基礎医学生物学は科学であるというのに、実験とデータを含めた研究全体を見通し、責任を負って研究を遂行できる能力がある人材が日本の研究者会の本流から急速に枯渇してきている。これは日本の将来を考えたとき実に憂慮すべき問題だ。従来の日本的な強みのある人材も消えていき、欧州のごく普通にいるような、学際的研究のための多様な学問的背景を持った人材も蓄積されていない。しかし、この危機的状況はあまり認識されていない。

実のところ多くのシニアのひとたちは、STAP論文のシニア著者たちのことを気の毒に思っているはずだ。悪い人に当たってしまった、交通事故のようなものだ、と考えているだろう。なぜならば、日本の医学生物学の標準的研究体制からして、理研の体制は格段に酷い体制ではなかったかもしれないからだ。(尤も、理研の近年の予算縮小に伴う内部への締め付けの影響があった可能性は否定しない)

ここで私はSTAPの研究体制に問題がなかったと言っているのではない。酷い言語道断の状況だが、日本の他の研究室に比べて、それは取り立てて酷いわけではないことが問題で、それがゆえに日本全体の科学社会の劣化を憂えているのだ。

こんな事態になった大きな理由のひとつは、研究を実地でしている現場(ジュニア)と教授たち(シニア)の能力・意識・立場がこの十年くらいで急速に乖離していっていることがある。年を取った教授たちがお手盛りで定年を延長して長居しているうちに、最新の研究データを理解できないようになり、実験方法の機微を理解していないのはもちろん、特に最新機器(マルチカラーフローサイトメトリー、次世代シークエンス、マイクロアレイなど)の生データを理解できないどころか、マイニング・データ解析の理論についても全く分かっていないひとが多い。著明な教授たち偉い面々は、日々の研究の場では、学生たちが図に加工したデータしか見ていない。

一方のジュニアは、別名をピペット奴隷(ピペド)という。彼らには土日なし、夜11時まで、というのが標準的な長時間労働が強制されるが、研究者という名目だけで、自分の研究を教授の許可なしには自由に発表できない。そして老いた教授たちがいつまでも職に居座っているから、若者が大学・研究機関で定職に就ける見込みは殆ど無い。彼らはいつまでも下働きとしてこき使われている。そして彼ら若者を「指導」している教授たち自身がどれだけ最新科学を理解しているかは疑問なのだから、当然その下についている大学院生・研究員たちは、「ピペド」以上の存在にはなれない。しかも定職がない・学位がかかっているといった弱みにつけこまれて日常的に教授から理不尽な圧力をかけられる。こうした異常な事態が普通に見られる。ジュニアをこの不安定で肉体的・精神的に過酷な状況に追いやって、それでいて緻密な研究や科学的な高い倫理観を要求するのは、やはり無理があるのではないか。

誤解がないように、私はここで日本の研究室で意図的な組織的捏造が常態化していると言っているのではない。確認バイアスの虜になった教授たちが、データーに直接接することで「自然」から真実をつきつけられ、「自然」の前に反省する機会を完全に逸していることについて話しており、若者が主体的に能力を伸ばす機会を奪われていることについて語っている。

これが日本の医学生物学研究の標準だ。私は標準だから良いと言っているのではない。これが標準になるほど、日本の医学生物研究は堕落しているのだ。研究の底辺を支えている若手研究者は使い捨てにされて彼らの能力を伸ばす機会を与えられず、その血と涙を容赦なく絞った成果を研究の表舞台で華やかに発表している多くの教授たちは、既に最新科学による測定とデータ解析を理解できなくなって(=責任を持てなくなって)、修辞学(レトリック)で格好よく論文を書くのが偉い学者だと勘違いしている。

これは科学者としての堕落だ。科学的真実に対する背信だ。かつてギリシャで哲学者がソフィストに堕落したのと同じことではないか。ちなみに、この傾向は日本だけではなく、米国の大研究室も同じ問題を抱えている。だから、米国であれば何でも範とあおぐ輩には、この問題は認識できない。

ところで私は、5年前に免疫学会に縁があって学会改革のためのエッセイを依頼されて、このピペド問題について論じた文章を書いたが、委員の先生がたの支持にも関わらず、上部の権限で没にされた。私はそれを提起して論じていれば、免疫学会だけでも多少は状況が改善していたのではないかと思っているが、残念ながら日本免疫学会はその機会を逸したようだ。だから同じ問題は今の免疫学で起きてもおかしくないし、ほかのどの医学生物学の分野で起こっても全く驚かない。

こんな暗澹たる状況だが、それでも日本はムラ社会だ。それなりに研究者ムラ社会の中での助け合いは機能することもある。そしてそれがゆえに、誰も地に二本足で立っていない(自立していない)。ジュニアとシニアはお互いもたれ合い、研究者と研究所・大学はお互いもたれあっている。そして問題が起きると、このもたれあいの構造の中で、責任を引き受ける立場のひとに仮に意思があっても自由に発言できず、責任を引き受ける気がないひとは真っ先に逃げ、その喧噪の中で水は低いところに流れていき、末端が責任をとらされて終わることになる。

つまり、STAP問題は、日本では特別な問題では全くない。これは日本の社会が広く抱える病態が、幾つかの偶然によって、理研という場で大きくスポットライトを浴びるようになっただけだ。この問題は、科学の社会における公正を取り戻し、科学研究の全体に対して責任を負える優秀な人材を育てる環境をつくり、日本の科学研究を建て直さないことには解決しない。もしこの問題を個人の瑣末な問題に帰して、構造的問題に手をつけることなく終わらしてしまえば、同じ問題に由来する危機を日本の科学界は近い将来に再び経験せねばならなくなるだろう。
posted by 小野昌弘 at 06:32 | TrackBack(0) | 科学・研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月26日

日本の「自画自賛」とその落とし穴

最近、日本がいかに素晴らしい国か、他国より優れているかという自画自賛の文を目にする事が多くなった。こういう話は自尊心を刺激するだけで、現実に役立つものが何もない。やがて自画像だけ肥大した国家主義に陥る。これはやめたほうがいい。70年前に、同じことをやって、外交・軍事で完敗した。

英国は、こういう国粋主義的方向には流されにくい土壌がある。この意味で、日本が本当に英国から学ぶべきことは、その功利主義だと強く思う。これは、難しい問題が生じたときこそ、威勢のいい言葉に流されず、問題解決を金と人的資源の配分という観点を中心に考え、政治=異なる政治的集団同士の交渉=を経て、政策の社会的・経済的効果が最大値にすることを目指すこと。
posted by 小野昌弘 at 07:26 | TrackBack(0) | 政治・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする